萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第11回 大内氏の栄華と衰退をたどれる居館と山城 大内氏館と高嶺城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届け!今回は、西国一の戦国大名・大内氏が、守護所として築いた大内氏館と詰城として築いた山城・高嶺城をご紹介します。

高嶺城、主郭北側、石垣
高嶺城の主郭北側の石垣。隅角部には破却の痕跡も

西国一の戦国大名・大内氏の方形館

室町時代に周防・長門守護となり、戦国大名化した大内氏。守護所として築いた方形館が大内氏館で、西へ約2キロ離れた鴻ノ峰に詰城として築かれた山城が高嶺城です。

大内氏館は、14世紀末から15世紀初頭頃に現在の場所に築かれたとみられます。中世の山口は、いくつもの交通路が集中する上に、椹野川を利用すれば瀬戸内側に出られる好立地でした。館は堀と塀がめぐらされた1辺最大200m以上の方形館で、少なくとも5度の改修が明らかです。

判明している4つの庭園のうち、最大規模の池泉庭園が復元整備されています。中世の庭園が改変されずに見つかっている例はとても貴重。遺物からは、本州西端の立地を生かして貿易により成功し、独自の文化を誇った大内氏の栄華がうかがえます。

大内氏館、門跡、土塁、池泉庭園
大内氏館。西辺で発見された門跡、土塁、池泉庭園がされている

大内氏の城から毛利氏の城へ

高嶺城は、大内氏最後の当主となった大内義長が、毛利元就の侵攻に備えて弘治3年(1557)の正月から築城を開始したとされます。元就の攻勢(防長経略)は予想外に早く、3月には山口に侵攻。義長は未完成の高嶺城に入ったものの、城を捨てて長門に逃亡し、4月には自刃しました。しかし高嶺城を廃城にはならず、毛利氏が改修して完成させます。大内氏の滅亡後には城番が置かれ、寛永15年(1638)に廃城になるまで、山口の支配拠点として存続しました。

主郭を固める織豊期のものと思われる石垣は、野面積みで算木積みも未完成。主郭北面の石垣は特殊な形状で、異なる方向を向いた3段ほどの石垣が重なり、張り出しのような部分も見られます。主郭南側の虎口空間と思われる小曲輪の石垣は少し様相が異なり、鏡石のように巨石が立てられています。よく似た立石は吉川元春館など毛利氏の城で見られます。

城は山頂に主郭を置き、主郭北側曲輪群、主郭東側曲輪群、主郭南西側曲輪群と3方の尾根にそれぞれ8・6・7つの曲輪を持つ曲輪群が派生しています。主郭北西の尾根を下りた先が主郭北西平坦面で、主郭南側の南北に細長い曲輪からは、西側に西側曲輪群、南側に南側曲輪群が連なります。テレビ電波塔がある場所から南側の尾根にも曲輪群が続き、山麓の山口大神宮の南丘陵にも、独立性がありそうな曲輪群が確認されています。

高嶺城が築かれている鴻ノ峰は、標高338m。JR山口駅から山頂まで徒歩約90分、県庁前バス停から約70分、おとどいやま森林公園駐車場から徒歩約45分です。足元を固め、ハイキングの装いでお出かけください。山口市歴史民俗資料館に立ち寄ってから訪れるのがおすすめです。

高嶺城、毛利軍、大内輝弘
山口県庁から見上げる高嶺城。1569(永禄12)年に大内輝弘が騒乱を起こして山口に攻め入った際も、高嶺城の毛利軍は少ない手勢で退けたという。

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)など。「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)2018年9月14日発売、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)2018年9月18日発売。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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