2018/09/27
お城の現場より〜発掘・復元最前線 第19回【郡山城】解体修理で見えた幻の天守の姿
城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第19回は、「逆さ地蔵」など転用石が多用された石垣が有名な郡山城(大和郡山城)について、大和郡山市教育委員会の十文字健さんがレポート。孕み出しを解消するために行われた天守台の解体で発見されたのは、実在が疑問視されていた豊臣時代の天守の姿を示す瓦や礎石などの遺物だった!?
大和郡山城の天守台。孕み出しの進行により2013年から整備が行われた
豊臣期天守台の発掘
郡山城では明治の廃城時にすべての城郭建築が失われたが、大部分の曲輪や石垣が今日も良好に残っている。城郭のほぼ中央に位置する天守台は石垣に「逆さ地蔵」や「伝・羅城門礎石」などの転用石材が多用されていることで有名だったが、近年は石垣の孕み出しが進み、立ち入りが制限されていた。そこで2013年から天守台展望施設整備事業を実施し、4年がかりで天守台の復旧・再共有に取り組んだ。
事業に伴う発掘調査では天守の礎石を発見し、史料がほとんどないことから「幻の天守」と称されていた天守の実在を確認できた。礎石やそれを支える根石にも転用石材が多く使われていた点は実に郡山城らしい。天守台に付属する付櫓台でも地階の石垣や礎石を確認し、築造当初の入口や天守への動線も明らかになった。
発掘調査で確認された天守礎石
礎石上から出土した瓦は豊臣期大坂城(大阪府)や聚楽第(京都)と関わりのあるものが多く、発見した天守の遺構が豊臣政権期の築造であることが明らかになった。周辺からは郡山城初となる金箔瓦も出土し、天守の実態に迫る大きな成果が得られた。
天守台から発見された金箔瓦。よく見ると、瓦の凸面に金箔がわずかに付着していることがわかる
天守台石垣の解体
発掘調査後、変形が進む石垣を救うために天守台全体の約1割を解体修理した。解体範囲には後世の改変の痕跡がなく、盛土や裏込が普請時の状態で残存していることを確認した。逆石や団子積みの多用に間詰石の流失や築石の割れが重なって築石がゆるやかに変形したとみられるが、今日まで大きく崩落しなかった築造技術には驚かされる。
解体中の天守台。築石は積み直しの際に元の場所に戻せるよう、一つ一つに番号を振ってから外していく
解体したことで、自然石に刻まれた墓碑のような表面観察からはわからなかった転用石材の存在も確認できた。裏込にも多数の転用石材が混入しており、その数は石塔や石仏など600点以上あった。
天守台に使われていた転用石。「逆さ地蔵」などが有名な郡山城だが、石仏以外にも五輪塔などが使用されていた
盛土からも瓦が出土し、その特徴から礎石や解体範囲の石垣の築造年代が文禄〜慶長初頭(16世紀末)になる可能性が高くなった。この時期は豊臣秀保(とよとみひでやす)の名護屋からの帰陣や慶長の大地震など城郭整備の大きな画期になりうる出来事が重なっており、関連が注目される。
城跡の保全に向けて
天守台石垣を再び積み上げるにあたり、割れ石は接着または交換し、安定性に不安がある築石は背面で入念に支えられるように工夫した。さらに解体範囲外も含めた石垣全体で間詰石を補充して、長期的な保全に務めた。展望施設が整備されたことで来城者は事業前と比べて増加し、より多くの人が城跡を共有し、学び、体感できるようになった。
修復が完了した天守台には手すりがつけられ、内部構造を見学できる施設が造られた
事業に伴う調査を通じて郡山城の遺構は再評価されつつある。一方で城内には他にも変形が進んでいる遺構が少なくない。城跡を次世代に確実に伝えるためにも、適切な保存管理体制の構築が喫緊の課題となっている。
天守台以外の石垣でも孕み出しは確認されている。写真は本丸の石垣だが、中央部が不自然に膨らんでいることがわかる
郡山城(大和郡山城)(こおりやま・じょう|やまとこおりやま・じょう/奈良県大和郡山市)
郡山城は天正年間(1573~1592)に筒井順慶(つついじゅんけい)により築城がはじまり、天正13年(1585)に豊臣秀長(ひでなが)が100万石に相応しい城郭として威容が整えた。関ヶ原の戦い後に城主不在となるが、江戸時代になると水野、松平、本多、柳沢といった徳川譜代大名が幕末まで城主を務めた。
執筆/十文字健(大和郡山市教育委員会)
写真提供/大和郡山市教育委員会