現存12天守に登閣しよう 【丸岡城】北陸地方唯一の現存天守

歴史研究家の小和田泰経先生が、現存12天守を一城ずつ解説!今回は、現存天守のなかでは、もっとも古い建築様式を持つ丸岡城(福井県)をご紹介。築城時に、お静という女性が人柱になったという人柱伝説も残るとか・・・。

丸岡城、天守
丸岡城の天守

北陸は一向一揆の拠点

戦国時代の北陸地方では、浄土真宗の本願寺第8世蓮如が、越前国(福井県)の吉崎を拠点に布教を始めてから、急速に門徒が増加していました。こうした門徒らが中心となってひきおこされた武装蜂起が、一向一揆です。「一向」とは「ひたすら」あるいは「一筋」という意味で、「阿弥陀仏」の名号を唱える浄土真宗は、他宗派から「一向衆」とよばれていました。一揆というのは、「揆を一にする」、すなわち結束するという意味ですので、本願寺の門徒が結束した武装蜂起を、一向一揆といったのです。

そうしたなか、尾張の織田信長が畿内を押さえ、天正元年(1573)には越前国の戦国大名朝倉義景を滅ぼして北陸に進出していきました。しかし、信長による統治は、越前国の一向一揆が蜂起したことで、頓挫してしまいます。このとき、信長は甲斐国(山梨県)の武田勝頼と対立しており、越前国に軍勢を派遣することができませんでした。そのため、越前国は、一向一揆に征圧され、本願寺から派遣された坊官の下間頼照が越前を支配することになりました。

丸岡城、一向一揆、木ノ芽峠
一向一揆が待ち構えた木ノ芽峠

織田信長により一向一揆は壊滅

天正3年(1575)、長篠・設楽原の戦いで武田勝頼を破った信長は、3万の軍勢を率いると、満を持して越前国に侵攻していきました。これに対し、一向一揆側は、越前国の国境に近い木ノ芽峠の周辺に木ノ芽峠城を中心とする城砦を築いて待ち構えていましたが、その日のうちに突破されてしまいます。

そのころ、坊官の下間頼照は、坂井郡の豊原寺に立て籠もっていました。 豊原寺は、「豊原三千坊」と謳われた天台宗の大寺院で、本願寺とともに信長に対抗しようとしていたのです。しかし、豊原寺は焼き払われ、海路から加賀国(石川県)に逃れようとした下間頼照は捕らえられて斬首されました。このあと、数万人の門徒が虐殺されたといい、越前一向一揆は壊滅したのです。

丸岡城、本丸、お静慰霊碑
本丸にある「お静慰霊碑」

北庄城の支城として築城

越前一向一揆の壊滅後、信長は柴田勝家を北庄城におき、越前の支配を委ねました。このとき、柴田勝家は養子の勝豊を坂井郡におき、勝豊は、豊原寺の西に約5㎞離れた丸岡に北庄城の支城を築きます。これが丸岡城で、天正4年(1576)に築かれたとされています。築城の際には、子どもを武士にするとの条件で、お静という女性が人柱になったものの、約束は果たされなかったという伝説が残されていますが、人柱そのものが史実とは考えられません。

いずれにしても、丸岡城主柴田勝豊は、勝家の養子として越前支配に大きな役割を果たしますが、天正10年(1582)におきた本能寺の変後、信長の遺領配分を決めたいわゆる清須会議において、近江国(滋賀県)に移ることになりました。この直後、柴田勝家と豊臣秀吉が織田家中の実権をめぐって争い、天正11年(1583)には賤ヶ岳の戦いがおこります。このとき、長浜城を秀吉に攻められた勝豊は、すぐに降伏します。もともと、義父の勝家とは折り合いがよくなっかったともいわれますが、抵抗しても無駄だという判断もあったのでしょう。越前国と近江国の国境付近でおきた賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家は敗れ、北庄城は落城しました。

北庄城、柴田勝家、銅像
北庄城跡に建てられた柴田勝家の銅像

城主は本多家から有馬家に

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、越前国には徳川家康の次男結城秀康が68万石で入りますが、北庄城の近くに新たな城を築城します。これが福井城で、丸岡城は福井城の支城となりました。当初、丸岡城には福井藩主となった結城秀康の子松平忠直の附家老であった本多成重が入ります。その後、忠直が不行跡のために配流されると、本多成重は独立した譜代大名として取り立てられました。しかし、本多家はのちに御家騒動で改易となり、代わって入封した有馬家6代が城主となり、幕末を迎えています。

丸岡城、天守、石落
天守1階に設けられた実戦的な石落

昭和の地震で天守が倒壊

明治維新後、丸岡城は廃城にともない天守以外の建物は解体されてしまいます。残された天守は、戦前の国宝保存法では「国宝」に指定されていました。しかし、昭和23年(1948)の福井地震で天守が倒壊してしまい、古材を用いて復元されました。

その後、我が国では文化財保護法の制定にともない、旧国宝はすべて「重要文化財」とされ、そのなかでも特に高い価値があるものが「国宝」に指定されました。このとき、丸岡城の天守は「国宝」に指定されなかったので、現在でも「重要文化財」に指定されているわけです。もちろん、丸岡城天守の歴史的な価値が劣ることを意味するものではありません。現存天守のなかでは、もっとも古い建築様式をもっており、現在、「丸岡城天守を国宝にする市民の会」が、丸岡城天守の価値を高める活動を行っています。


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小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。

著書『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
  『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
  『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
  『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。

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