2018/07/13
理文先生のお城がっこう 城歩き編 第4回 山城へ行ってみよう〈初級編〉-山中城を歩こう1-
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回は、いよいよ実際に山城へ行ってみます!静岡県の山中城は、とても面白い形の堀が残るお城。一体、どのようなお城なのでしょうか?
■理文先生のお城がっこう
前回「第3回 服装選びのポイントは(山城の場合)」はこちら
後北条氏の技術力を駆使して築いた土の城
山中城は、永禄(えいろく)年間(1558~70)後半頃(ごろ)に、後北条氏(ごほうじょうし)によって築(きず)かれたと考えられています。天下統一(てんかとういつ)をめざす豊臣秀吉(とよとみひでよし)との間で対立が深まりつつあった天正15年(1587)より後に、大規模(だいきぼ)な城(しろ)の造(つく)り直しの工事が実施(じっし)されました。領内(りょうない)には、城を造るための土木工事の手伝いする人手を派遣(はけん)する命令も出されています。
初めは、小田原へと続く街道を通過(つうか)するのを防(ふせ)いだり、難(むずか)しくしたりする目的がありましたが、豊臣軍を迎(むか)え討(う)つために守りを固めるための工事が実施(じっし)されました。守りを固める工事によって、城が長く伸(の)びすぎたために、岱崎出丸(だいさきでまる)と本丸などの主要部が分かれてしまいました。また、崖(がけ)や谷が広がる地形のために、各曲輪間の繋(つな)がりや連絡(れんらく)・連携(れんけい)するための方法が少なくなってもいます。後北条氏が、当時持っている城を造るための最も新しい技術(ぎじゅつ)によって、造り直して大きくし豊臣軍に備(そな)えました。
しかし、天正18年(1590)3月29日早朝、山中城を豊臣軍約7万人の軍勢(ぐんぜい)が取り囲みました。右翼(うよく)に池田輝政(いけだてるまさ)以下2万人、左翼(さよく)に徳川家康(とくがわいえやす)以下3万人、そして中央に総大将(そうだいしょう)の豊臣秀次以下、中村一氏(なかむらかずうじ)、一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)、山内一豊(やまうちかつとよ)、堀尾吉晴(ほりおよしはる)など、総勢(そうぜい)2万人が三手に分かれて城を取り囲んだのです。城を守るための兵力は、城主の松田康長、助けるために派遣された北条氏勝、間宮康敏(まみややすとし)など約4千人で、その兵力差は実に17倍だったのです。
戦いは岱崎出丸と西櫓(にしやぐら)から始まりました。両軍から激(はげ)しく鉄砲(てっぽう)が打ち続けられ、多くの戦死者が出ました。戦いの場はやがて二ノ丸、本丸へ移(うつ)り、圧倒的(あっとうてき)な数の前に守備(しゅび)する北条方の兵は程(ほど)なくほとんどが戦死しました。城主(じょうしゅ)の松田康長も戦死して、正午過(す)ぎには山中城は落城してしまいます。両軍の戦死者約2千人とも言われ、戦国時代で最も大きな城攻(しろぜ)めのための戦いの一つです。
山中城復元(ふくげん)イラスト(監修(かんしゅう):加藤理文 イラスト:香川元太郎、出展:『大きな縄張図で歩く!楽しむ! 完全詳解 山城ガイド』加藤理文・監修(学研プラス刊))
駐車場から西の丸、西櫓をめざそう
城の見学には、三島方面から国道1号線を東に向かって走り、左側(箱根方面からなら右側)の駐車場(ちゅうしゃじょう)を出発点にするのが便利です。整備が行き届(とど)いているため、第2回の「近世城郭(きんせいじょうかく)の場合」のような服装(ふくそう)で十分です。
駐車場あたりが大手口で、ここから道は真直ぐに伸びています。城があった当時は、この道の左右が水堀(みずぼり)で、さらに右上の三の丸から、通路を通る敵方(てきがた)の兵士に対して、弓や鉄砲で側面から攻撃(こうげき)することが出来ました。まるで、水田の中に造られた一本道のような感じでしたので、そこを通る兵士を簡単(かんたん)に狙(ねら)い撃ち出来ました。鍵(かぎ)の手(2度直角)のように折れて、左に登って、西の丸、西櫓をめざしましょう。
大手口の通路と堀跡(ほりあと)
西の丸は、城の最も西端(せいたん)の尾根(おね)の上に位置し、南側に西櫓が付設(ふせつ)する構造(こうぞう)です。ここが、山中城最大の見所で、見事な堀障子(ほりしょうじ)が、西櫓と西の丸の外周を取り巻(ま)いています。堀の形や、曲輪との関係、どこが切れ目となるかなど確認(かくにん)しておきましょう。写真撮影(しゃしんさつえい)の絶好(ぜっこう)のポイントです!晴れていたらきれいな富士山(ふじさん)がまじかに見られます。
西の丸と西櫓間の堀障子(後方に富士山)
堀の幅(はば)は、狭(せま)いところで10m、広いところは約30mにもなります。お菓子(かし)のワッフルのように堀の中に畝(うね)が設(もう)けられているため、一度下に落ちてしまえば、ローム(粘質性(ねんしつせい)が高く、滑(すべ)りやすい土)の壁面(へきめん)は滑りやすく、容易(ようい)に上がることが出来ないのです。そこに上の曲輪から鉄砲や弓矢で一斉射撃(いっせいしゃげき)にあってしまうわけです。まさに蟻地獄(ありじごく)のような堀でした。
西の丸南下の畝堀(うねぼり) 西の丸より見た西櫓
西櫓は、西の丸よりやや低く三方を土塁(どるい)が取り囲む姿(すがた)をしています。西の丸側に土塁が無いのは、万が一敵方の手に落ちた時に、陣地(じんち)として利用できなくするためで、三ノ丸からは内部が丸見えでした。西の丸は、本丸に次ぐ重要な曲輪で、周りすべてを土塁で囲み、西櫓側の土塁の幅(はば)を広くして、その上を物見台(ものみだい)にしています。ここは、本丸に延(の)びる尾根の先端ですから、城内で最も強固に守りを固め、本丸へ敵方が進むことが出来ないようにしていました。西櫓と元西櫓(もとにしやぐら)へは、木橋が架(か)けられていました。木橋は、戦争状態(せんそうじょうたい)になった時に、壊(こわ)して下に落としてしまえば、敵方の進入路を無くす効果(こうか)がありました。
西の丸物見台 物見台より見た西の丸
・所在地(しょざいち):静岡県三島市山中新田(しずおかけんみしましやまなかしんでん)
・築城時期(ちくじょうじき):永禄年間(えいろくねんかん)(1558~70)
・主な城主(じょうしゅ):後北条氏
・主な遺構(いこう):曲輪、堀障子、土塁
・標高:580m
・アクセス:JR三島駅からバス「山中城跡」下車
・駐車場:国道沿(こくどうぞ)いに二ヶ所有り
山中城案内図(三島市提供(みしましていきょう))
今日ならったお城(しろ)の用語
曲輪(くるわ)
城(しろ)の中で、役割(やくわり)によって区切られた一つの区域(くいき)です。近世になると「〇〇郭(かく)」「〇〇丸」と書かれるようになります。
水堀(みずぼり)
水を引き入れた堀(ほり)です。平地に城(しろ)を築(きず)くと、自然に水が湧(わ)いてくることが多かったため、水堀にする城が多く見られます。運河(うんが)としたり、城内(じょうない)の排水(はいすい)の処理施設(しょりしせつ)にしたりして利用されました。
堀障子(ほりしょうじ)
水の無い空堀(からぼり)の中を畝(うね)で仕切った堀を呼(よ)びます。後北条氏(ごほうじょうし)(小田原北条氏)の城(しろ)で多く造(つく)られました。畝だけで仕切った場合を「畝堀(うねぼり)」、障子(しょうじ)の桟(さん)やお菓子(かし)のワッフルのように「田」の字型の畝を配置した堀を「障子堀(しょうじぼり)」と呼んだりします。
陣地(じんち)
合戦の時に、攻(せ)め手より有利になるように、兵を置いた場所を言います。柵(さく)で囲い込(こ)むこともありました。
木橋(きばし)
木材で造(つく)られた橋です。「掛橋(かけばし)」とも呼ばれ、堀(ほり)に架(か)けるものでした。戦争状態(せんそうじょうたい)になった時に、守備側(しゅびがわ)が壊(こわ)して敵(てき)が渡(わた)れないようにすることが出来ます。
物見台(ものみだい)
遠くを見渡(みわた)すために設(もう)けた高い台のことです。上に、施設(しせつ)を建てることもありました。
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加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。