2018/08/30
お城の現場より〜発掘・復元最前線 第11回 【小牧山城】近世城郭の草分けか!?小牧山城石垣調査
日本全国で行われている城郭の発掘調査や復元・整備の状況、今後の予定や将来像など最新情報をレポートする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。今回は、小牧市教育委員会 小野友記子さんによる、小牧山城(愛知県)の発掘調査の最新情報をお届けします。最新の調査で発見された石垣は、果たして織田信長が築いたものなのでしょうか。
2017年度までの発掘成果
国指定史跡小牧山(小牧山城)は愛知県小牧市に所在する戦国時代の城郭跡で、濃尾平野に独立してそびえるその姿は、1968年に建てられた山頂の模擬天守(小牧市歴史館)とともに尾張地方のランドマーク、小牧市のシンボルとして親しまれています。
小牧山城遠景
小牧山城の発掘調査は、史跡整備に伴う事前調査として実施されています。北麓の屋敷跡伝承地や東麓の帯曲輪地区などの調査を経て、現在は山頂の主郭を中心とした主郭地区の調査が進んでいます。主郭地区では、信長築城段階の石垣など新たな発見が相次ぎ、織豊系城郭の初期の城郭の様子を知る貴重な資料が得られました。その主な成果は下記のとおりです。
主郭をめぐる斜面では2~3段の石垣が検出されました。石垣は野面積で鈍角の入隅・出隅を繰り返し、主郭を囲んでいます。2014年には3段目の石垣を確認し、主郭が幾重もの段築石垣で囲まれていたことや石垣の構築が予想以上の範囲に及ぶことが判明しました。
主郭を囲む段築石垣の発掘状況
2011年には墨書のある石垣石材が出土しました。分析と検討の結果、墨書は「佐久間」と判読され、佐久間信盛に代表される佐久間一族が小牧山城の石垣建設に関わっていた可能性が指摘できます。
墨書された石材
墨書部分のアップと、墨書の赤外線写真
2017年の調査では、主郭下の北西斜面で2カ所の石垣列が確認されました。石垣列は山頂西側に展開する曲輪群から主郭に至る登城道の途上に位置し、道の両側をはさむように張り出す形状をしており、石垣で画された出入口(虎口)の存在が推定されます。この新発見から、小牧山城を築く際には主郭に入るための複雑な構造を持たせるなど、外部の人間の出入りを容易にさせないような工夫を凝らしていたことがうかがえます。
2017年の調査で出土した石垣列
主郭地区の調査成果は、織田信長の築いた小牧山城が「美濃攻略のための一時的な砦・城」であるという従来の評価を塗り替え、織豊系城郭の初現となる本格的な構えであったこと、いわゆる日本の「城」の石垣の源流がここに求められることを示しています。石垣背後の構造調査などからは山の地形を利用し工事の省力化を図る「山ありき」のプランではなく、山頂部の原形をほとんど留めないほど改変し、城に作り変える「城(の設計)ありき」の築城工事を推進した織田信長の城郭に対する思想・姿勢の一端をうかがうことができました。
永楽期の小牧山推定想像図
主郭地区の発掘調査は2018年度も実施予定です。「信長の野望」にどこまで迫ることができるか、今後も見守っていただきたいと思います。
小牧山城の整備状況
近年、小牧山の東麓と南麓では、公共施設の移転後に発掘調査を行い、その成果に基づき城跡の復元・整備が進められています。東麓の帯曲輪地区では、永禄期の信長在城段階に山を取り囲むように配置された武家屋敷群の区画跡や、天正期に家康が陣城とした際に改修した土塁や虎口などが解説とともに整備されました。また、南麓の大手曲輪地区では、天正期の土塁と堀が復元・整備されています。
東麓帯曲輪地区の整備状況
南麓大手曲輪地区の整備状況
小牧山城(こまきやま・じょう/愛知県)
小牧山城は、永禄6~10年(1563~67)、織田信長が清須城(愛知県)から岐阜城(岐阜県)に移るまでの4年間居城とした城。天正12年(1584)には徳川家康と羽柴(豊臣)秀吉が歴史上ただ1度だけ直接対峙した小牧・長久手の合戦で、家康が小牧山城を陣城(本拠地)としたことなどでその名を知られている。
執筆者/小野友記子(小牧市教育委員会)
写真提供/小牧市教育委員会