籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する|小和田哲男 第6回 厳島宮尾城の戦い

戦国時代の武将たちの戦略の一つとして、お城に立て籠もる「籠城戦」がありました。籠城戦というと、敵の攻撃を耐え続けた末に籠城側が最終的に敗れてしまうイメージがありますが、実際はどうだったのか? ドラマの時代考証などを担当されている小和田哲男先生が、籠城側が敵を撃退した戦いを通じて、その戦略を紐解きます。第6回のテーマは、毛利元就が陶晴賢の大軍を迎え撃った「厳島の戦い」。元就が厳島という狭い場所をあえて戦場に選んだ理由、そして宮尾城に籠城した元就の巧みな戦略について見ていきましょう。

毛利元就が厳島を戦場に選んだのはなぜか

毛利元就も陶晴賢(すえはるかた)も大内義隆の家臣だったが、その義隆が晴賢の下剋上によって自害させられると、元就は晴賢と対立しはじめる。ただ、陶軍が動員兵力2万に対し、毛利軍は4000ほどしか動員力はなく、まともにぶつかって勝てる相手ではなかった。

中国伝来の兵法書『呉子』応変篇に、「衆を用うるは易を務め、少を用うるは隘(あい)を務む」という一文がある。要するに、「自軍が多勢なら平坦な地を、少勢ならば狭隘な地に布陣する」という意味である。元就がこの『呉子』の一文を読んでいたかどうかはわからないが、陶の大軍と戦うには、狭い厳島(いつくしま)におびきだすのが一番と考えた可能性はある。では、元就はどのようにして、陶の大軍を厳島におびきだすことができたのだろうか。

宮尾城本丸
要害山と呼ばれる標高約30mの丘に築かれた宮尾城本丸跡

このとき、元就はいくつかの手を打っているが、一つは、晴賢の家臣己斐豊後守(こいぶんごのかみ)と新里宮内少輔(にいざとくないのしょう)の二人を調略によって寝返らせていることである。そして、二つ目として、厳島に宮尾(みやのお)城(広島県廿日市市宮島町)という城を築き、そこに寝返ってきたばかりの己斐豊後守と新里宮内少輔の二人を入れているのである。これだけでも陶晴賢を刺激するに十分であるが、何と元就はもう一つ、手を打っていた。

晴賢に伝わるように嘘の噂を流させたというのである。その噂というのは、「宮尾城に二人を入れたのは失敗だった。いま攻められたらひとたまりもない」というのである。当時、こうした嘘の噂を流して敵を攪乱させることはよくあることで、仮にそれだけであれば、晴賢も「それは謀略かもしれない」と疑ったと思われる。しかし、元就はさらにもう一つ手を打っていたのである。

宮尾城の攻防戦からはじまった厳島の戦い

元就は、居城郡山城(広島県安芸高田市)の留守役の重臣桂元澄に命じ、晴賢に対する偽りの内応の書状を書かせているのである。「晴賢殿が厳島の宮尾城を攻めれば、私は元就の背後を攻めるつもりである」という内容であった。当時ありがちだった、機をみて有利な方につくという風潮や、重臣の中から裏切りに走る者が多かったことから、晴賢はこの桂元澄の密書を信用してしまった。

こうして、おびきだされる形の晴賢は、弘治元年(1555)9月21日、宇賀島(うがしま)・桑原・大浜氏ら警固船500余艘に分乗して厳島に渡り、翌22日早朝、全軍、厳島の大元浦というところに上陸し、宮尾城の南、厳島神社の近くの塔ノ岡に着陣し、同時に宮尾城も包囲する形となった。

このとき、宮尾城には500から600の兵しかおらず籠城となったわけであるが、陶軍は2万の大軍なので、すぐ攻めれば簡単に落とせたはずである。にもかかわらず、晴賢は本格的な城攻めをしていない。それはおそらく、晴賢が先の桂元澄の内応の密書を頭から信じきっていたからであろう。「元就が宮尾城の後詰のために厳島に渡ってきたところを迎え撃ち、背後から攻めかかってくる桂元澄軍と元就を挟み撃ちにしよう」という作戦をたてていたものと思われる。

晴賢が厳島に渡ったという報を得た元就は9月24日、嫡男の隆元を先陣として出陣させ、元就自身は27日に出陣し、28日には本陣を厳島の対岸の地御前(じごぜん)(廿日市市地御前)というところに移している。

厳島の合戦要図
厳島の合戦要図(小和田哲男著『毛利元就 知将の戦略・戦術』)

そして、9月30日、元就・隆元らの主力第1軍は、日没とともに行動を開始した。折からの暴風雨をおして地御前から海を渡って厳島の包ヶ浦(つつみがうら)(鼓ヶ浦)に上陸し、晴賢の本陣のある塔ノ岡にせまった。同じ日の夜、元就の3男小早川隆景が率いる別働第2軍は大野から迂回して有ノ浦に着き、宮尾城の味方と合流することに成功した。

元就の奇襲で晴賢を破る

戦いがはじまったのは翌10月1日の夜明けであった。夜が白みはじめるのと同時に、夜の内に包ヶ浦から博奕尾(ばくちお)というところに布陣していた元就本隊と、宮尾城の城兵および小早川隆景の軍勢が塔ノ岡の陶軍めがけて一斉攻撃がはじめられたのである。

晴賢の側では、前夜、元就本隊が厳島に渡ってきたことを察知していなかったこともあり、奇襲を受けて浮き足だった。狭い島内で、しかも2万という大軍だったため、大混乱に陥っている。まさに、文字通り、元就の作戦勝ちで、元就自身、子の隆元らに宛てた手紙の中で「ひとえにひとえに武略・計略・調略かたの事までに候々」や「はかりごと多きは勝ち、少なきは敗け候と申す」といっていることが実践された形であった。

晴賢は、いったん山口に逃れて再挙をはかろうとしたが、島から脱出を試みようと船を求めたが得られず、ついに高安原というところで自刃して果てた。このときの陶軍の戦死者は4700余人と伝えられており、いかにすさまじい戦いだったかがうかがわれる。

▼「籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する」その他の記事はこちら

alt
執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
   ▶YouTube「戦国・小和田チャンネル」も配信中