【続日本100名城・志苔館(北海道)】海を渡り和人が築いた室町時代の城

15世紀頃、アイヌの人々が暮らす北海道に本州から渡った“和人”が築いた12の館(城)「道南12館」をご存知でしょうか? 道南12館の一つ「志苔館(しのりだて)」は、函館空港から車で5分ほどで到着するアクセス良好のスポット。アイヌの人々との戦いで2度の落城を経験し、江戸時代を前に役目を終えたこの館(城)跡を探検してみましょう!

築城年代が推定できる道内最古の和人の城「志苔館」

志苔館
入口にある志苔館の看板と碑

現在の北海道はかつて「蝦夷地」と呼ばれ、狩猟や漁労を生業に暮らすアイヌ民族が住む地域でした。蝦夷地の南部には本州から「和人」が移り住んだ地域もあり、鎌倉時代には彼らをまとめる役目として、津軽半島の十三湊(とさみなと)に拠点を置く安藤氏(のちの安東氏)が選出されています。安藤氏は、執権北条氏の家臣として流刑になった罪人の管理も行っていましたが、海上貿易で財を成し「蝦夷管領」と呼ばれていました。

15世紀になると、渡島(おしま)半島の海岸線に沿って和人の館(城)を築きます。これらが「道南12館(どうなんじゅうにだて)」です。なかでも最東端に位置しているのが「志苔館」で、松前藩の史書『新羅之記録』によれば、館を築いたのは小林太郎左衛門尉良景という人物でした。小林氏は安東氏の家臣にあたり、ちなみに先祖は上野国(現在の群馬県)出身だそう。

東北の南部氏と戦っていた安東氏は、道南12館築城を皮切りに勢力を立て直そうとしましたが……一方で、アイヌの人々は生活を圧迫されるようになっていきました。

志苔館を襲ったコシャマインの戦い

志苔館、小林良景の記念碑、留目政治先生の頌徳碑
曲輪内に並ぶ小林良景の記念碑と、志苔館の保存に貢献した宇賀小学校校長・留目政治先生の頌徳碑

ある日、アイヌの少年が和人の鍛冶屋と口論になり殺害される事件がおきます。長禄元年(1457)首長・コシャマインをリーダーに、憤慨したアイヌの人たちは立ち上がり道南12館を攻撃。花沢館(はなざわたて・上ノ国町)と茂別館(もべつだて・北斗市)を除いた10の館を陥落させました。志苔館にいた小林良景も、この戦で命を落としています。

コシャマインは、花沢館の城主・蠣崎秀繁(かきざきすえしげ)の武将であった武田信広(たけだのぶひろ)に討たれ、1年にも及ぶ戦いは和人の勝利で打ち切られますが、アイヌの人々との揉め事はこの先も続くのでした。

ショヤコウジ兄弟の戦いで2度目の落城

志苔館
上空から見た志苔館(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより引用 志苔館付近の写真をトリミング加工)

コシャマインの戦いに続いて志苔館を襲った悲劇が、永正9年(1512)ショヤコウジ兄弟の戦いです。アイヌの首長であった兄弟が武田信広の子・蠣崎光広との間で起こした戦では、志苔館も巻き込まれ落城。小林良景の子・良定が自殺しています。最終的に、蠣崎光広は和睦を申し入れるふりをして兄弟を騙して誘い出し、酒宴の席で殺害してしまったそう! これは恨まれそうですね…。

この戦いの後、安東氏から独立した蠣崎氏が蝦夷地の領主となり、アイヌとの取り決めを行ったり、アイヌの指導者に交易の利権を分ける形で交渉。アイヌと和人の戦いの歴史が幕を下ろしました。蠣崎氏はのちに松前氏と名を改め、江戸時代には松前藩を立藩しています。この頃には、志苔館も役目を終え廃館となりました。

発掘調査でわかった志苔館の姿

標高17〜25mmの段丘に築かれた志苔館跡は、四方に土塁をめぐらせた単郭の構造で、東西70〜80mほど、南北50〜60mほどの大きさと、わりとコンパクトな館跡です。館跡の目の前には津軽海峡が広がり、海の向こうには下北半島を眺めることができます。

志苔館、平面表示
発掘調査の成果をもとに、創成期となる14世紀末〜15世紀初頭の建物跡・柵跡・井戸跡の遺構を平面表示している。20m×11mの建物が2棟並び、その周りを柵で囲っていたようだ

志苔館、建物跡
建物跡。目に見えてわかるので、とても想像しやすい! 

1983〜1985年に実施した発掘調査によると計7棟分の建物跡や柵跡、井戸跡が確認され、なかでも建物跡では柱間の寸法の違いや礎石から、全部で3期に分けて建て替えられていることがわかりました。

(1期)掘立柱建物:14世紀末期頃〜15世紀初頭頃
(2期)掘立柱建物:コシャマインの戦い後の15世紀中頃
(3期)礎石建物:16世紀以降

断定はできませんが、礎石建物が建っていた16世紀はショヤコウジ兄弟の戦いがあった頃。17世紀には廃館していたことを考えると2度目に落とされた後に建て直したのかもしれませんね!

志苔館、井戸跡
井戸跡の中からは、井戸で使われた板材の他に箸や曲物、桶の破片、銅銭なども見つかっている

曲輪の北東隅にある城内唯一の井戸跡は、城が築かれた当初からあったと推測できるもの。地下5mまで掘られた穴は、四隅に柱を据え4枚の板で囲った「方形隅柱横桟式」と呼ばれる形式です。復元では、確認された井戸枠と同じ構造のものをわかりやすいように地表に出して表示しています。

志苔館、国産陶器(瀬戸盤)
出土した国産陶器(瀬戸盤)【画像提供:函館市教育委員会】

また、出土した遺物では76点の陶磁器の破片や、金属製品(古銭22点、銅製品18点、鉄製品279点)、硯・砥石などの石製品8点、そして木製品などがあげられます。

なかでも注目は陶磁器で、中国製の陶磁器のほかに瀬戸、越前、珠洲(すず)など国産陶器も見つかり、館が使われていた時期にあたる15世紀初頭のものが多いということがわかりました。

二重の空堀が守る西の門跡

志苔館、虎口跡
西側の虎口跡。門跡からは土橋(写真手前)と木橋(写真奥)が続いている

志苔館、二重空堀
二重空堀。写真の手前が城内側、写真奥が城外側にあたる。復元整備では館の変遷がわかるように復元し、遺構の保護・保存が行われている

曲輪は、高いところで4〜4.5m、低いところでも1〜1.5mの土塁に囲まれ、さらに外側には沢地形を利用した空堀が四方に巡っています。

虎口は東西にそれぞれ1箇所ずつ設けられ、なかでも他の面に比べて西側は、二重の空堀が掘られた厳重な構えです。発掘調査によると、築城当初は二重の薬研堀(やげんぼり)に木橋をかけ門を通過し中に入る導入路となっていましたが、城の改修とともに堀も造り替えられました。城内側は、堀の形状が「薬研堀」から「箱堀」へ、「木橋」も「土橋」へと移行していったようです。

<改修前>
城外側:薬研堀・木橋
城内側:薬研堀・木橋
<改修後>
城外側:薬研堀・木橋
城内側:箱堀・土橋

▶︎併せて読みたい記事:
超入門! お城セミナー 第35回 【構造】堀にもいろいろな種類があるの?

志苔館の近くで見つかった大量の財宝⁉︎

志海苔,古銭,函館博物館,いなもとかおり
「北海道志海苔中世遺構出土銭」【画像提供:市立函館博物館】

昭和43年(1968)、志苔館跡から300mほど離れた地点の道路拡張工事でお宝が発見されました! その数、なんと38万7514枚の古銭。古銭がぎっちり入った大甕が3個も出てきたのです。

持ち主や埋めた意図は不明なままですが…ヒントはこの大甕にあるかもしれません。大甕はいずれも14世紀後半〜15世紀初頭に属するもので、産地は越前と珠洲でした。志苔館から出土した甕との共通点もあることから、館主の小林氏が強く関係していそう! それにしても儲かっていたのですね。羨ましいです。

「北海道志海苔中世遺構出土銭」は、市立函館博物館にて常設展示されているので併せて訪れてみてください。

志苔館から松前城へ

志苔館の館主だった小林氏は、日本最北端の藩・松前藩の家臣となり江戸時代も続いていきます。道南12館の旧館主たちの中には、小林氏のように松前藩家臣となる家が他にもあり、廃館後も逞しく生きていたのだなと思うと心にグッとくるものがありますね。志苔館と松前城をセットで訪れると、歴史の点と点が1本の線になって繋がっていくようで面白いですよ!

志苔館の基本情報>
住所:北海道函館市志海苔町・赤坂町 
電話番号:0138-21-3472(函館市教育委員会生涯学習部文化財課)
※史跡内は立ち入り自由

※文中、歴史を解説する際は「志苔館」、史跡を紹介する際は「志苔館跡」と表記しています。

<参考文献>
・『アイヌ民族:歴史と現在ー未来をともに生きるためにー』(公益財団法人アイヌ民族文化財団、2019)
・函館市HP「史跡志苔館跡」:https://www.city.hakodate.hokkaido.jp/docs/2018032900043/

いなもとかおり
 執筆・写真/いなもと かおり
 お城マニア&観光ライター
 年間120城を巡る城マニア。國學院大學文学部史学科古代史専攻卒。19歳の時に、会津若松城に一目惚れしてから城の虜となる。訪城数は600ほど。国内旅行業務取扱管理者、日本城郭検定1級、温泉ソムリエ、夜景鑑賞士2級の資格をもつ。城めぐりの楽しみ方を伝えるべく、テレビやラジオにも出演中。

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