2021/06/09
籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する|小和田哲男 第3回 河越城の戦い
戦国時代の武将たちの戦略の一つとして、お城に立て籠もる「籠城戦」がありました。籠城戦というと、敵の攻撃を耐え続けた末に籠城側が最終的に破れてしまうイメージがありますが、実際はどうだったのか? ドラマの時代考証などを担当されている小和田哲男先生が、籠城側が敵を撃退した戦いを通じて、その戦略を紐解きます。第3回のテーマは、関東支配をめぐって対立した両上杉氏と北条氏による「河越城の戦い」です。敵の大軍に囲まれた河越城を救出するため、北条氏当主・氏康が取った策とは?
河越城救出一本にしぼった北条氏康
戦国大名北条氏の初代伊勢宗瑞(そうずい)(北条早雲)は、駿河の今川氏親を補佐していたこともあり、氏親とその跡を継いだ氏輝のときまで、北条・今川同盟が成立していた。ところが、氏輝の死後、家督を継いだ義元が、北条氏とは敵対関係にあった甲斐の武田信虎と手を結んだため、宗瑞の子氏綱は今川氏と敵対し、駿河に攻め込んでいる。天文6年(1537)のことで、これを「河東一乱」とよんでいる。
氏綱の死後、北条氏3代目当主となった氏康も義元と敵対していたが、ちょうどそのころ、氏康は、関東の旧勢力である扇谷(おうぎがやつ)上杉朝定・山内(やまのうち)上杉憲政の「両上杉」、さらに古河(こが)公方足利晴氏らを敵にまわし、東西に敵をもつ苦しい立場にあった。しかも、その「両上杉」と古河公方の三者が連合して、小田原城の支城河越城(埼玉県川越市)を攻める動きをみはじめたのである。河越城には、氏康の女婿である北条綱成(つなしげ)が城主として入っており、窮地に立たされることになった。
これは、今川義元が氏康との戦いを有利に進めるため、山内上杉憲政と連絡を取り、氏康の背後を衝かせようと動いたからである。氏康としては、腹背に敵をもつ不利を考え、天文14年(1545)10月24日、義元と講和している。『妙法寺記』には、「武田殿御アツカヒニテ和議成され候」とあるので、武田信玄が噯(あつか)い、すなわち仲介役になって義元と氏康の和議が成ったことがわかる。この結果、それまで占領していた駿河国の富士川以東、すなわち「河東」の地域は今川方に返還されることとなったわけであるが、これで、氏康は、河越城救出に的をしぼることができたのである。
敵を油断させる和平交渉
翌天文15年(1546)、河越城は「両上杉」軍および古河公方の軍勢に囲まれた。軍記物にはその軍勢を8万とするが、実際はその半分以下と思われる。しかし、大軍だったことは明らかで、城内にいる城兵3000だけでは戦いにならない。そこで、氏康が8000の兵を率いて救援に向かったわけであるが、そのとき、氏康は謀略の手を使っている。

東明寺境内に立つ川越夜戦跡(河越夜戦跡)石碑。この地の要路・松山街道を含んだ東明寺寺領と境内で争われたとされる
何と、城兵3000の助命を求め、河越城を明け渡すと通告しているのである。つまり、和議を結び、戦いにならないようにしたいと偽りの申し出ということになる。これで相手が油断したことはいうまでもない。
こうした工作をした上で、氏康は4月17日、相模江ノ島岩本坊に戦勝を祈願し、河越城救出に向けて出陣し、河越城近くの砂窪に着陣し、20日の夜、柏原に布陣していた山内上杉憲政の軍勢に攻撃をしかけている。夜襲は予想していなかったらしく、和平交渉をもちかけられていたこともあり、上杉軍は油断していたため潰走する事態となった。

河越の戦いにおける足利・上杉連合軍と北条軍の軍勢地図
こうした展開をみた河越城の綱成も、一気に下老袋に本営を張っていた足利晴氏を攻めたため、晴氏の軍も敗走をはじめ、氏康の勝利となった。「両上杉」の軍勢および古河公方の軍勢の犠牲者は3000に及んだという。しかも、この乱戦の中、扇谷上杉氏の当主朝定が討ち死にしているのである。
「両上杉」・古河公方の没落
当主を失った扇谷上杉勢は本拠の松山城(埼玉県吉見町)に逃れたが、勢いづいた北条軍がそれを追い、朝定の宿老だった太田資正(すけまさ)は城を守ることができず、上野に逃げていった。氏康は河越城を守っただけでなく、新たにこの松山城も手に入れ、そこに家臣の垪和(はが)伊予守を入れている。
こうして、関東支配をめぐる「両上杉」および古河公方といった旧勢力と、北条氏という新興勢力の戦いは、完全に北条氏の勝ちとなり、旧勢力がこのあと急速に衰退していくこととなったのである。『北条五代記』は戦いの顚末を記したあと、「憲政は越後をさしてはいぼくす。晴氏公は下総へ落行。氏康猛威を遠近にふるひしかば、公方・上杉の郎従等、ことごとはせ参じ、降人と成て幕下に付。それより以来関八州を静謐におさめ給ひぬ」とまとめている。まさに、河越城の戦いは、戦国関東の分水嶺ともいうべき戦いだったことがわかる。
なお、戦いが夜間にくりひろげられたことで、この戦いを河越夜戦ともいっている。
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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