理文先生のお城がっこう 城歩き編 第37回 作事とは、なんだろう

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。37回目は「作事(さくじ)」と呼ばれる建築工事がテーマ。大きな石垣や天守がそびえるお城がどのようにして建てられていくのか、また一般的な住宅の建築方法とはどのように異なるのか、見ていきましょう。

お城を建てるための工事は、まず堀(ほり)を掘(ほ)ったり、曲輪(くるわ)を造(つく)ったり、石垣(いしがき)を積み上げたりする「普請(ふしん)」と呼(よ)ばれる土木工事から始められます。「普請」が終わると天守(てんしゅ)や門などを建てる建築工事「作事(さくじ)」が始まります。

作事には普請奉行(ぶぎょう)とは別に作事奉行が役目に就(つ)くように命じられ、左官(さかん)(建物の壁(かべ)や床(ゆか)、土塀(どべい)などを、こてを使って塗(ぬ)り仕上げる仕事、またそれを専門(せんもん)とする職種(しょくしゅ)のことです)大工(だいく)(主として木造(もくぞう)建造物の建築(けんちく)・修理(しゅうり)を行う職人のことです)など専門の職人が雇(やと)われました。

石垣工事
石垣工事までの普請が終わった状態です。ここから、建物を組み上げていく工程が作事になります。作事には、様々な作業が必要になります

作事とは

作事とは、建物を建てる工事のことです。具体的には、天守・御殿(ごてん)・櫓(やぐら)・城門(じょうもん)・塀(へい)などを建てる作業のことで、普請と異(こと)なり工事期間も長く、また一定の期間が経過すると修繕(しゅうぜん)(壊(こわ)れたり悪くなったりしたところを直すことです)改修工事(建物の内・外観をきれいに新しくしたり、模様替(もようが)えをすることです)必要でした。

工事を担当(たんとう)したのは、建築専門職の大工(大工棟梁(とうりょう))と番匠(ばんじょう)(中世日本において木造建築に関わった建築工のことで、木工(もく)とも呼ばれ、今日の大工の前身にあたります)で、その費用(ひよう)は特別なことが無い限(かぎ)り城主の負担(ふたん)でした。普請は、土木工事であるため領内(りょうない)の民百姓(たみひゃくしょう)などを大量動員し対応(たいおう)が可能(かのう)だったわけですが、作事は専門(せんもん)的技能を要するため、ほとんど不可能だったのです。

姫路城、渡櫓、改修工事
姫路城「リの一・リの二」渡櫓(わたりやぐら)の改修工事です。姫路城のような白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)の城は、定期的な改修工事が、必ず必要になります。これも「作事」の一環です

武家諸法度(ぶけしょはっと)の規定(きてい)(「一国一城令(いっこくいちじょうれい)」)においても、普請と作事は明確(めいかく)に区別され、普請は幕府へ届出(とどけで)、許可(きょか)を得(え)る必要がありましたが、作事には届出の義務(ぎむ)は無く、旧来(きゅうらい)と同様(元通りに)に復旧(ふっきゅう)するだけなら、許可を得る必要はなかったのです。また、御殿等の居住(きょじゅう)施設(しせつ)は、軍事施設(しせつ)とはみなされていなかったため、自由に増(ぞう)改築が可能でした。そのため、本丸から二ノ丸へ、二ノ丸から三ノ丸へと御殿を移(うつ)したり、城内に隠居(いんきょ)をした先代の御殿などを建てたりする例が多く見られるわけです。

掛川城、二の丸御殿
掛川城の二の丸御殿は、嘉永7年(1854)大地震(じしん)で倒壊(とうかい)したため、時の城主太田資功(おおたすけかつ)によって、安政2年(1855)~文久元年(1861)にかけて再建されました

作事に関わった職人集団

作事を担当したのは、専門の技術者(ぎじゅつしゃ)集団(しゅうだん)で、そうした様々な技術を持つ諸(しょ)職人を指図し動かしたりまとめたりするのが作事奉行でした。作事は、建物本体を造る木工事が中心で、土壁を塗る左官工事、瓦(かわら)や杮(こけら)を葺(ふ)く屋根工事、座敷飾(ざしきかざり)、金具や建具類の製作(せいさく)、畳(たたみ)の製作というように現代(げんだい)の住宅(じゅうたく)建設のようなものだったのです。御殿の場合は、障壁画(しょうへきが)の製作に当たる職業画家集団を指揮(しき)することも加わることになります。職人たちはすべて有給で、銀や銭(ぜに)で賃金(ちんぎん)が支給(しきゅう)されました。現場(げんば)作業に対しては、併(あわ)せて食事の支給もあったのです。

襖絵、化粧金具、畳、天井、御殿
「襖絵」「化粧金具」「畳」「天井」など、御殿内部については、ありとあらゆる専門の技術者集団の手によって、完成されることになります

土塀、工事
土塀などは、竹小舞(たけこまい)を組むことから始まり、荒壁塗(あらかべぬり)から仕上げまで、何工程も必要で専門の技術者でなければ、造り上げることは出来ませんでした

大名家ではこうした技術者を常日頃(つねひごろ)より家臣として抱(かか)えていたようで、徳川家康の下で駿府城(すんぷじょう)(静岡県)や江戸城(東京都)の建築物に携(たずさ)わった大工・中井正清(なかいまさきよ)は、大工頭(だいくがしら)になっています。慶長(けいちょう)11年(1606)従五位下(じゅごいのげ)大和守(やまとのかみ)に任官(にんかん)、同14年には千石に加増され、同18年頃には従四位下(じゅしいのげ)に昇進(しょうしん)しています。近代以前の日本における位階制度(せいど)では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族(きぞく)とされていますので、かなりの厚遇(こうぐう)だったことが解(わか)ります。

金沢城橋爪門、復元工事
現在は、鉄骨を組んで大型機械を用いるなどして復元工事が行われますが、当時はすべて手作業で行われていました。城を築くために莫大(ばくだい)な費用が必要でした(金沢城橋爪門の工事です)

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※作事(さくじ)
天守や櫓・城門や塀などを建てる建築工事(大工仕事)のことです。近世城郭(じょうかく)を建てる場合は、作事が築城工事の中心でした。

番匠(ばんじょう)
中世日本において木造建築を建てることに関わった建築工のことで、木工(もく)とも呼ばれ、今日の大工の前身にあたる専門技術者のことです。

一国一城令(いっこくいちじょうれい)
慶長20年(1615)に江戸幕府(ばくふ)が発令した法令(武家諸法度)の中の細目で、一国(大名の領国、後の藩(はん))に大名が居住(きょじゅう)あるいは政庁(せいちょう)とする一つの城郭を残して、その他の城(支城)はすべて廃城(はいじょう)にするという内容です。従(したが)って、2カ国支配していれば2城、3カ国なら3城を持てることになります。

座敷飾(ざしきかざり)
座敷を飾(かざ)るために設(もう)けられた「床の間(とこのま)」「棚(たな)(違い棚)」「付書院(つけしょいん)」「帳台構(ちょうだいがまえ)」( 書院造りの上段(だん)の間(ま)の側面などに設けた部屋飾りの一つです)などを言います。

障壁画(しょうへきが)
障子(しょうじ)絵(襖(ふすま)絵など)の、我(わ)が国の建築物における壁貼付絵(かべはりつけえ)の総称です。天井に描(えが)かれた天井画も含(ふく)まれます。我が国の絵画史上(しじょう)最大の画派(がは)が、狩野永徳(かのうえいとく)などに代表される狩野派です。

大工頭(だいくがしら)
江戸幕府の役職名で、作事奉行に属(ぞく)して配下の大工を統率(とうそつ)していました。江戸の大工頭は定員2人(のち3人)で、関八州(かんはっしゅう)、駿河(するが)、三河(みかわ)、遠江(とおとうみ)の大工を、京都の大工頭は中井家の世襲(せしゅう)職で、五畿内(きない)と近江(おうみ)の大工を管轄(かんかつ)していました。

次回は「天守の歴史」です。

お城がっこうのその他の記事はこちら

加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

関連書籍・商品など