2021/04/07
籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する|小和田哲男 第1回 安芸郡山城の戦い
戦国時代の武将たちの戦略の一つとして、お城に立て籠もる「籠城戦」がありました。籠城戦というと、敵の攻撃を耐え続けた末に籠城側が最終的に破れてしまうイメージがありますが、実際はどうだったのか? ドラマの時代考証などを担当されている小和田哲男先生が、籠城側が敵を撃退した戦いを通じて、その戦略を紐解きます。第1回のテーマは、毛利元就が尼子軍を迎え撃った「安芸郡山城の戦い」です。
籠城=敗北ではなかった戦国の合戦
豊臣秀吉が次つぎに城を落とし、天下統一を成し遂げていったという印象が強いため、籠城しても、結局は負けてしまい、籠城することは意味がないのではないかと思われる方が多いかもしれない。
ところが、そうではないのである。籠城して、籠城した側が勝ったという戦いもあった。そうでなければ、そもそも、はじめから籠城などということは考えず、城も発達しなかったのではなかろうか。むしろ、籠城して勝ったケースがあったから、築城術にさらに磨きがかけられたものと思われる。そこで、実際に籠城戦で敵を撃退した戦いを取り上げ、どのような戦いだったのか、城にいかなる工夫があったから勝てたのかを具体的に追いかけることにしたい。まず、第1回として、天文9年(1540)から翌10年にかけての安芸郡山城の籠城戦をみていくことにしよう。
往時の郡山城は山全体を要塞とする巨大な城郭だった
尼子経久と大内義興の迫間で
安芸の郡山城(広島県安芸高田市)の城主は毛利元就である。元就は大永3年(1523)に家督を継いでいるが、はじめは尼子(あまご)経久に従っていた。ところが、次第に周防・長門の大内義興の力が郡山城近くにまで及び、ついに、享禄元年(1528)10月、元就は家臣の井上新三郎を人質として山口に送りこみ、大内義興へ臣従する決意を伝えている。その直後、義興が亡くなり、子の義隆が家督についたので、元就は大内義隆に属すことになった。
尼子経久は、この元就の寝返りを許すわけにはいかないと考えたが、尼子氏の内訌(ないこう)もあり、すぐに討伐軍を出せる状況ではなく、結局、天文6年(1537)に家督を継いだ経久の孫晴久が同9年、元就討伐に動いている。元就にしてみれば、尼子氏から大内氏に乗り換えた直後に尼子氏に攻められなかったのは幸いであった。
尼子晴久はその年6月、三刀屋(みとや)から赤穴(あかな)、さらに三次(みよし)を通って元就の居城である郡山城を攻める遠征軍を組織して出発させた。しかし、このときは、元就の娘五龍(ごりゅう)の夫である宍戸元源(ししどもとよし)が甲立(こうたち)五龍城(広島県安芸高田市)でねばり強く抵抗したため、尼子軍は兵を引いている。
3万の敵を8000の兵で守り抜く
郡山城を目指した尼子軍の進入経路図
備後路をとって失敗した尼子軍は、今度は8月、赤穴から石見国に入り、都賀(つが)、口羽、多治比を通って郡山城に迫るというルートをとって侵入してきた。このときは、晴久自身は出陣せず、祖父経久の弟久幸(ひさゆき)を総大将とし、それに国久、誠久(さねひさ)ら一門を中心に、総勢3万を数える大軍だったといわれている。
それに対し、守る元就方は最大に動員しても8000であった。しかも、その圧倒的多数は領内の農民であり、実際の戦闘要員はたったの2800といわれている。数の上からみれば、元就に全く勝ち目のない戦いだったといってよい。
戦いはその年の9月15日からはじまった。はじめのうち、尼子勢は郡山城の城下に放火してまわり、それを防ごうとする毛利勢との間に小競り合いがくりひろげられる程度だった。元就は籠城戦法をとり、大内義隆からの後詰を待つ作戦であった。
9月23日、尼子勢は風越山から城下南方の青山と三井山に本陣を移している。青山城を向城(むかいじろ)、すなわち陣城として築いており、現在、そのときの曲輪や土塁が確認されるので、本格的な対(たい)の城であったことがわかる。
籠城戦は長引き、10月11日、しびれを切らした尼子誠久ら新宮党の率いる一隊が一気に郡山城を力攻めにしようとして、かえって元就の伏兵にあい、敗れるという一幕もあり、しばらく戦線は膠着状態が続いた。
郡山城の本丸跡
12月3日、城兵側が待ちに待った大内義隆からの後詰の援軍が到着した。このときの大内氏の援軍は、義隆自身の出陣ではなく、重臣の陶(すえ)隆房(のち晴賢と改名)率いる1万の軍であった。それまで郡山城を包囲していた尼子軍が、かえって後詰の兵によって外側をとりまかれる形となり、尼子軍は、城の内側の毛利軍と、外の大内軍とに挟まれる状態となってしまったのである。
こうして膠着状態のまま年を越し、天文10年(1541)正月を迎えた。8月に出雲を出発した3万の大軍は、兵糧の補給も大変だったし、それより何より、冬の寒さが長期滞陣の将兵にはこたえた。
総大将尼子久幸は、「早く何とか決着をつけなければ」と考え、正月13日、総攻撃を命じ、自らも全軍を指揮して郡山城への突入をはかろうとした。ところが、思いもかけず、その戦いで討ち死にしてしまったのである。
長期の滞陣で疲れていたところへの総大将の死である。尼子軍は一気に戦意を喪失し、その夜の軍議で撤退と決まった。もっとも、勝ちいくさのときの撤退は楽であるが、負けいくさのときの撤退はむずかしい。事実、このときも大内軍・毛利軍は逃げる尼子軍に追い討ちをかけ、かなりの兵が討たれている。尼子軍はそれこそ散り散りになって、ほうほうの体で、月山富田城(島根県安来市)に逃げもどっているのである。
この郡山城戦は、尼子氏の衰退のはじまりを告げる戦いであると同時に、元就の武名が高まった戦いでもあった。
執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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