超入門! お城セミナー 第107回【鑑賞】熊本城にはたくさん食べものが隠れているって本当?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回は、熊本城と食べ物のお話。籠城戦を徹底的に戦い抜ける城を造るため、築城名人・加藤清正が熊本城に施した秘策とは? 熊本城に隠された兵糧と清正が食べ物にこだわった理由を紹介します。


熊本城、天守
2020年夏の特別公開第二段時の天守の様子。まだ、小天守は工事用の足場が組まれているが、大天守は以前の姿をほとんど取りもどしている

加藤清正が築いた熊本城に隠された秘密とは?

2016年に発生した熊本地震で大打撃を受けた熊本城。震災発生から5年の節目を迎える2021年、熊本の人々やお城ファンが待ち望んだ復興への大きな一歩が踏み出されようとしています。城、そして熊本市のシンボルでもある天守が2021年4月26日に完全復活するのです。内部の展示もリニューアルされ、よりパワーアップした姿が見られるようになります。

さて、熊本城と言えば、「第33回【武将】加藤清正はどんな城を造ったの?」でも紹介した、加藤清正による過剰ともいえる防御が特徴。迷路のように敵を惑わせる縄張や「扇の勾配」と呼ばれる曲線が敵を寄せ付けない石垣などを持ち、「最強」との呼び声も高い堅城として知られます。

熊本城、二様の石垣
清正と彼の後に城主となる細川氏の石垣が併存する「二様の石垣」。手前が清正の積んだ石垣だ

熊本城の防御に対する清正のこだわりは「食」にまで及んだといいます。籠城戦では、城を防御施設でガチガチに固めることも重要でしたが、同時に将兵の食料をしっかり用意することも大切。横矢掛りや枡形虎口などの敵を殲滅する罠をどれだけ仕掛けても、そこを守る兵士が空腹で動けなくなってしまっては何の意味もありませんよね。

通常、籠城戦で兵士たちが食べるのは、城内に備蓄しておいた兵糧です。しかし、清正は兵糧が尽きた後も将兵が生き残れるように城内のあらゆるものを「食べられる」ようにしてしまったのです。果たして「食べられる」城とはどういうことなのか。熊本城と食べ物にまつわる意外な関係を解き明かしていきましょう。

籠城戦を耐え抜くために隠された「食べ物」

熊本城に隠れている「食べ物」の一つ目は本丸内にある大イチョウです。イチョウの種子・ギンナンは茶碗蒸しや素揚げなどにすると美味しい現代でも人気の食材ですが、戦国時代には米がない時の保存食として重宝されていたそうです。兵糧がなくなった時に兵たちがギンナンを食べられるように、清正は自ら本丸内に銀杏を植えたといいます。

熊本城、大イチョウ、天守
大イチョウと天守。清正はイチョウを植えた際に、「この木が天守と同じ高さになった時、城に異変が起こる」という予言を残したという逸話も残る(熊本地震以前に撮影)

さらに清正は、城内の建物にも食料を隠していたといいます。建物の壁には干瓢(かんぴょう)が塗り込められ、そして畳には芋茎(ずいき/ヤツガシラなどの茎を干した保存食)を藁の代わりに使ったというのです。ただし、これらの伝承は清正の名将ぶりを強調する後世の創作とされています。

また、清正は人が生存するために必須といえる水の確保も執拗といえるほどに行っていました。他の城でも水源の確保は重要とされ、今でも多くの城に井戸跡や水の手曲輪などが残っていますが、熊本城にはかつて100を超える井戸が掘られていました。これらの井戸は多くが失われてしまいましたが、現在でも17個の井戸が残っており、清正の籠城に対する執念を見ることができます。

熊本城、井戸
天守下に残る井戸。現在は見ることができないが、小天守地下にも井戸が残っている(熊本地震以前に撮影)

清正に兵糧の重要性を教えた「蔚山城の戦い」

食べ物を城に隠してまで、籠城戦を生き抜くことにこだわった清正。彼はなぜここまで徹底した防御を施したのでしょうか。その理由は、彼が体験した籠城戦にありました。

天正20年(1592)、天下を平定した豊臣秀吉は明征服の野望を抱き、配下の武将たちに朝鮮半島への出兵を命じます。豊臣軍の将として朝鮮半島に渡った清正は、明との国境付近まで攻め込むなどこの戦いで大活躍しましたが、その一方で慣れない朝鮮の気候や食糧不足に悩まされました。その中でも清正のトラウマとなったのが、2度目の遠征(慶長の役)で発生した「蔚山城(うるさんじょう)の戦い」です。

蔚山城とは、日本軍の拠点として清正が築いていた倭城のこと(倭城については「第102回【歴史】国外にも日本人が造った城があるって本当?」を参照)。石垣や惣構を備えた堅固な城になる予定でしたが、完成前に明・朝鮮軍が襲来。未完成の惣構を突破され、内城での籠城戦を余儀なくされます。

加藤清正、蔚山城の戦い
『絵本太閤記』に描かれた蔚山城の戦い。敵は5万を超える大軍だったが、蔚山城は10日間持ちこたえた

完成前の城には兵糧の備蓄などなく、井戸すら掘られていませんでした。わずかな食料はたちまち尽き、飢え渇いた城兵たちは紙や尿まで口にする悲惨な状況に追い込まれたのでした。結局、援軍が間に合ったことで清正は無事日本に帰還することができましたが、この経験で清正は城の防御施設と兵糧の重要さを痛感。これが、熊本城の徹底した防備につながるのです。

加藤清正、熊本城
熊本城前に立つ清正の銅像。彼が持てるすべてを注ぎ込んで築いた熊本城は、近代戦や大地震にも負けなかった

過酷な籠城戦の体験を教訓に、最強の堅城を築いた清正。震災の影響で、まだ立入が制限されている場所も多いですが、すでに安全が確認されたエリアや、2020年に設置された特別見学通路からも、その堅城ぶりを見ることができます。天守が復活した暁には、ぜひ熊本城を訪れてその防御の堅さを体感し、彼の籠城戦に対する危機感を感じてみてくださいね!

執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。城郭の専門家が山城の見どころを紹介する『隠れた名城 日本の城を歩く』(山川出版社)や、全国の都市に残る城郭の遺構を紹介する“再発見”街中の名城 −−廃城をゆく7−−』が好評発売中!

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