【緊急レポート】高速道路建設で発掘が進む河村新城はやっぱりすごかった!

今年もやってきた「お城EXPO」。12月19日(金)の厳選プログラムでは、「小田原北条氏の山城〜河村新城の発掘を中心に〜」が予定されている。講演のテーマの一つとなっている河村新城だが、戦国時代の貴重な遺構が発見されながら、すぐに消滅する運命にあるのだ。城跡から何が発見されたのか。戦国時代はどのような城だったのか。発掘の現場を取材した。

河村新城
発掘調査が進む河村新城。手前は発掘された竪堀。写真奥では高速道路の建設が進められている

400年ぶりに姿を見せ、すぐに消滅する運命

近年の発掘調査により、400年以上にわたる眠りから目覚めた河村新城。北条氏らしい畝を持つ障子堀、屋敷跡を伝える柱穴、兵士が駐屯したことを示す銃弾などの発掘品など、思いもしなかった遺構が次々と発見され、城の全貌が表れつつある。中世城郭(山城)としては、ここ数年で最大の発見と言えるだろう。

河村新城の発掘調査が開始したのは2018年12月のこと。その理由は、新東名高速道路の建設のためだ。現在、静岡県の御殿場から神奈川県の秦野までの延伸工事が進められており、高速道路予定地に城跡が引っかかっているのだ(開通は2023年度の予定)。そのため発掘調査が進められたのだが、貴重な城の遺構が発見されたからといって、高速道路をねじ曲げて回避させるわけにもいかない。400年ぶりに姿を見せた河村新城は、すぐに破壊され消滅してしまう運命にある。

貴重な遺構を少しでも多くの城ファンに知ってもらいたい。2020年11月下旬、特別な許可を得て発掘現場を取材した。

城跡に通じる山道は現在、一般車立ち入り禁止になっている。発掘調査の車両と高速道路工事の車両の両方が行き交うためだ。取材では発掘現場まで、かながわ考古財団に用意していただいたバンで移動した。茶畑の合間をぬって細い舗装道を登るうちに、高速道路の高架橋の建設が眼下に見えた。城山は鮎沢川と河内川が合流して酒匂(さかわ)川となる、その合流地点の北西側に位置する。標高345m、比高約180mと非常に急峻であり、バンで登るだけでその堅固さが実感できた。

河村新城
発掘調査が進む城跡の光景。「ここは火星かな」と思うほど、一面赤土の世界。関東ローム特有の土壌がむき出しになっている

駿河・甲斐・相模の国境に位置する最前線の城

取材ではまず、最高所の主郭に登らせてもらった。古い史料では「櫓台」と記載されているが、発掘調査によって建物跡を示す柱穴が発見されており、ここが主郭だったことは確実である。

四方に開けた眺望が素晴らしい。街道が走っていたであろう川沿いの集落を一望できるのだ。城がある神奈川県山北町は古来、駿河(静岡県)・甲斐(山梨県)と接する相模(神奈川県)側の国境に位置し、交通の要衝であった。河村新城から3国の国境である三国山まで車でわずか30分程度、駿河から相模に入る足柄峠へも同じく30分程度の距離となる。国境をおさえる「境目の城」であったことがよくわかる眺望だ。

河村新城
主郭から河内川がのびる北側を望む。甲斐方面への眺望が開けている

主郭の西側からは2重の横堀が発見された。この堀の規模がすごい。深さは優に10mはあろうか。横堀のひとつはL字状に折れており、北条氏の城の特徴である畝(障壁)が規則的に設けられている。この2重の堀によって主郭は厳重に守られていたのだ。西側は国境と対峙する方角でもある。主郭から西に向かって何重にも防御施設が構えられていることが、国境の最前線を守護したこの城の役割を物語っている。

河村新城、横堀
主郭から2本の横堀を見る。大地に穿たれた巨大な堀だ。登城道はコの字に折れている

河村新城、横堀
L字に折れた堀。堀の中に畝(障壁)が残されており、山中城の横堀を想起させる

主郭からは柱穴が発見され、少なくとも3棟の建物があったことがわかっている。主郭から一段下がった帯曲輪からも柱穴が発見されており、兵舎などが建ち並んでいたようだ。城内からは漆器や陶器、銭貨や銃弾、変わったところでは碁石なども発掘されており、城主や兵士が駐屯していたことをうかがわせる。また、帯曲輪からは石列も発見された。その用途は不明だが、主郭の鬼門方向にあたることから、鬼門除けの祠などが建っていたのかもしれない。

河村新城、遺構
主郭から見つかった建物の柱穴。庇(ひさし)付きの建造物があったこともわかっている

河村新城、遺構
帯曲輪に残された石の遺構。鬼門除けとなった祠の土台だろうか

豊臣秀吉軍を迎え撃つための改修か

主郭から降りて、大規模な発掘調査が進む西側を見学する。

主郭から100m程度西側には、馬出しが構えられていた。馬出しも山中城(静岡県)や小机城(神奈川県)など、北条氏の城では頻繁に用いられている防御施設だ。馬出しに通じる低い土橋からは、ピットが発見された。このピットは橋脚の跡だと考えられる。つまり、土橋状の遺構は橋の土台であり、その上に木橋が架かっていたということだ。木橋の橋脚跡は全国的にもめずらしい遺構である。

河村新城、馬出
土橋が設けられた横堀の先に馬出しが構えられている。山中城の西櫓と構造が似ている

河村新城、ピット
土橋に穿たれたピット。馬出しへと通じる木橋の橋脚跡と考えられる

さらに西側に進むと、長大な横堀と竪堀が現れる。折れを巧みに用いており、畝も伴っている。興味深いのは、南北に築かれた堀をさえぎるように、東西に走る新しい堀が設けられていることだ。城を改修する必要が生じて新しい横堀を増築したのだろうが、古い横堀がそのまま残り、接続面も不自然なのだ。城内ではこのように、工事途中なのかと思わせる場所がいくつか存在する。

その理由を、城の歴史から探ってみよう。境目の城である河村新城はたびたび戦火にさらされている。永禄12年(1569)には武田信玄に攻められて城は落ち、天正9年(1581)にも武田勝頼に攻撃されたことが古記録に残されている。さらに、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、徳川家康の軍勢に攻められ、衆寡敵せず落城した。この小田原攻めの直前、北条氏の多くの城では秀吉の侵攻に備えて大規模な改修工事があったことが判明しており、河村新城も同様に、この時期に改修が進められたのかもしれない。しかし、改修工事が完成する前に火ぶたが切って落とされ、臨戦態勢に入ったのではないか——現時点ではまだ憶測にすぎないが、城内の遺構を見ているとそのような歴史ドラマを思わず想像してしまう。

さて、現時点でも発掘作業が行われているが、一方で高速道路の建設も平行して進められている。せっかく見つかった遺構も、埋め戻され、破壊を待つ状況である。城ファンとしては、とても残念な光景だ。

河村新城
取材中も堀の埋め戻しが進められていた。写真左には障子堀の畝が見事に残るのに…

城は立ち入りが禁止され、発掘現場を実際に見ることはかなわないが、興味を持った人は「お城EXPO2020」の厳選プログラムで行われる「小田原北条氏の山城〜河村新城の発掘を中心に〜」に足を運ぶとよいだろう(12月19日)。出演は小田原城天守閣館長で北条の城のスペシャリストである諏訪間順氏と、かながわ考古学財団の主任主事として河村新城の発掘調査を現場で担ってきた相良英樹氏。調査の最新状況が発表され、城の歴史や役割が詳細に解説されることだろう。

お城EXPO2020、相良英樹
今回案内していただいた相良英樹さん(公益財団法人かながわ考古学財団主任主事)。「お城EXPO2020」の厳選プログラムに登壇されるので、発掘調査の報告・解説を是非聞きに行っていただきたい

▶相良英樹さんが「お城EXPO2020」で登壇する厳選プログラム

最後に、河村新城に興味を持った人には、同じ山北町にある河村城をオススメしたい。河村城は城跡公園として見事に整備されており、中世城郭(山城)をあまり訪れたことがない初心者にもわかりやすい城跡だ。河村新城で見つかった大規模な横堀(堀切)や障子堀、ピット(橋脚)の残る土橋などは河村城にも備わっており、親切な説明板を読みながら遺構を鑑賞することができる。城内に駐車場があるのもありがたい。

河村城と河村新城は、同じ地域に築かれ、北条氏の築城技術が随所に見られる兄弟みたいな城である。河村城を訪れ、消滅する運命にある河村新城に思いを馳せたい。

河村城、堀切
河村城の堀切。規模の大きさに圧倒されるだろう。芝生が貼られ、きれいに整備されている

河村城、堀切
河村城主郭北側の堀切。この堀底にも畝が設けられている


執筆・写真/かみゆ歴史編集部(滝沢弘康)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。人気の「廃城シリーズ」第7弾、『廃城をゆく7〜〝再発見〟街中の名城』(イカロス出版)が2020年11月に刊行。また、横長の判型が特徴的な『流れが見えてくる日本史図鑑』(ナツメ社)が5刷りの大ヒット中。

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