2020/03/13
PR 石垣だけじゃない!? 9万年以上前の阿蘇溶結凝灰岩をフル活用した岡城
山城でありながら膨大な石垣が積み上げられ、ユニークな曲線デザインを多用した岡城(大分県竹田市)。その背景には、阿蘇山の火山活動が生み出した「阿蘇溶結凝灰岩」の存在があります。阿蘇溶結凝灰岩を追いかけて、岡城から城下町、竹田市全体へと視点を広げていくと、岡城の知られざる魅力が浮かび上がってきます。
石垣の要塞を実現した阿蘇溶結凝灰岩
文禄3年(1594)、岡藩主・中川家は播州三木(現在の兵庫県三木市)から国替えにより豊後竹田へ移りました。異国の地で、標高325mの断崖絶壁の場所に石垣造りの城を新たに築く。考えるだけでも大変な状況にあって、どうやって“石垣の要塞”岡城を築くことができたのでしょうか?
その手掛かりは、岡城の石垣に使われている黒みがかった石にあります。この石は、「阿蘇溶結凝灰岩(あそようけつぎょうかいがん)」と呼ばれています。阿蘇山の噴火で噴出した火山灰などが堆積してできたもので、ほかの石に比べ、やわらかく加工しやすいという性質があります。
岡城登城口手前では、「阿蘇4」(約9万年前)の岩壁がむきだしになっている
阿蘇山の噴火のタイミングによって阿蘇溶結凝灰岩は「阿蘇1」(約27万年前)、「阿蘇2」(約14万年前)、「阿蘇3」(約12万年前)、「阿蘇4」(約9万年前)の4タイプに分類されます。
岡城の岩盤で主に目にするのは「阿蘇4」(約9万年前)です。岡城料金所から登城口に向かうと、突然大きな岸壁が目の前に現れます。この巨大な岩の上に、大手門や家老屋敷、各曲輪など岡城の主要部が築かれています。岩壁を見上げるだけで、規格外の地形に圧倒されてしまいます。
西ノ丸に築かれた、丸みを帯びた石垣(大手門とは反対側)
さらに、岡城内には豊富にある石を使った、美しい石垣が広範囲に広がっています。城の全域できれいに石を切り出した「切り込みハギ」が見られ、本丸や大手門周辺では、江戸時代後期の「谷積み」が見られます。ほかにも太鼓櫓の「亀甲積み」や大手門の「笑い積み」など、様々な石垣の技法が用いられています。本丸東側には、石垣を積んで本丸の面積を広げている部分もあります。
谷積み(写真左上)、亀甲積み(写真右上)、笑い積み(写真左下)、石垣の積み足し(写真右下)など、様々な石垣の技法が用いられている
一方で、曲線状に積まれているのも特徴です。また、登城口には、曲線に加工された石(カマボコ石)がずらりと並ぶ、岡城ならではの景観が広がっています。
岡城登城道に沿ってカマボコ石が積み上げられている
岡城の搦手側に残る石切場の跡
続いて石切場へと足を運んでみましょう。本丸に到達した後、大手門へと引き返さずに、搦手(裏口)に当たる下原(しもばる)門を目指します。下原門から岡城を下っていくと、岡城を囲むように流れる稲葉(いなば)川と大野(おおの)川が合流する地点に達します。
岡城搦手(下原門)から下ると、2本の川が合流する十川に達する
ここは、「十川(そうがわ)」と呼ばれる場所で、黒みがかった阿蘇凝灰岩が広がっています。阿蘇溶結凝灰岩にはやわらかい性質があり、加工するのに適していました。
川の浸食の影響も受けやすく、石切場周辺には「甌穴(おうけつ)」と呼ばれる、円形の穴にも着目してください。川底のやわらかい場所に、固い小石が入り、長い歳月をかけて水流の影響を受けて、穴がどんどん大きくなったものです。
十川には切り出した石と矢穴の跡がはっきりと残る(岡城に使われた石かは断定できない)
十川には江戸時代より前に岡城を治めていた、志賀(しが)氏時代の城下町がありました。現在では、ひっそりとした雰囲気の中に、案内板が残るばかりですが、中世の岡城を知るためには、ぜひ足を運んでおきたい場所です。
十川には、中世に支配した志賀氏(豊後・大友家の家臣)時代には城下町があった
トンネルや洞窟が多い城下町竹田
岡城で阿蘇溶結凝灰岩をじっくり堪能した後は、城下町竹田へと移りましょう。起点となるJR豊後竹田駅の裏には、岡城登城口手前の岸壁を思わせる、巨大な阿蘇溶結凝灰岩「阿蘇3」(約12万年前)の岩盤がそびえています。
JR豊後竹田駅裏の岩壁は、岡城より古い「阿蘇3」(約12万年前)とされる
阿蘇溶結凝灰岩に囲まれた盆地に開かれた城下町は、現在でもトンネルを通らないと入れないようになっています。江戸時代にはトンネルはありませんので、城下町に入るだけでも、大変困難だったはずです。
少年時代を過ごした瀧廉太郎にちなんで名づけられた、「廉太郎トンネル」
立派な石垣を備えた武家屋敷や寺社にも出会います。また、竹田キリシタン洞窟礼拝堂(大分県指定史跡)に代表されるように、岩を掘った洞窟や石仏が点在しているのも特徴です。阿蘇溶結凝灰岩を生かした城下町が今も残っているのです。
武家屋敷通り付近に残る「キリシタン洞窟礼拝堂」
「日本一の炭酸泉」を守る阿蘇溶結凝灰岩
さらに視野を広げて、城下町から北へ約15㎞の長湯(ながゆ)に移ります。「日本一の炭酸泉」として名をはせる炭酸泉は、阿蘇溶結凝灰岩と密接な関係をもっているのです。
二酸化炭素のほか様々な成分を豊富に含む長湯温泉の炭酸泉
長湯温泉の源は、くじゅう連山のひとつ「大船(たいせん)山」にあります。大船山から流れ出た温泉水が、阿蘇溶結凝灰岩「阿蘇4」(約9万年前)の下層を流れ、熊本大分構造線によって遮られた隙間から湧き出したものが長湯温泉です。
阿蘇溶結凝灰岩「阿蘇4」が「ふた」の役割をして、温泉水を守っているのです。おかげで、入浴しても、飲泉しても効果が高く、「飲んで効き長湯して利く長湯のお湯は、心臓胃腸に血の薬」といわれるほどです。
長湯温泉を流れる芹川と、カニのような形をした「ガニ湯」
さらに歴史的な観点では、岡藩3代藩主・中川久清(ひさきよ)が、大船山への山登りを好みました。山登りの途中に、立ち寄って身体を癒した場所が長湯温泉であり、岡城主にとってのリゾート地として開発されたのです。
与謝野鉄幹・晶子夫妻や、北原白秋など、名立たる文人たちも訪ねています。
くじゅう連山の大名墓で阿蘇溶結凝灰岩と岡城を望む
長湯温泉を流れる芹(せり)川を、中川久清の足跡を追うように上流にたどっていくと、大船山にたどりつきます。
中川久清は山登りが好きであることから「入山(にゅうざん)公」と呼ばれ、自らの墓を大船山に造らせてしまうほどでした。「入山公廟(にゅうざんこうびょう)」と呼ばれる墓は、「日本で一番高所にある大名墓」といわれています。
3代藩主・中川久清が眠る入山公廟は、石段や石灯篭が修復されている
ある「墓マイラー(歴史上の人物の墓を巡っている方々)」にお話を聞くと、入山公廟は最後の難関ともいえる、非常にハードルの高い墓とのこと。標高は約1400mありますので、簡単にはたどり着けません。なぜこんな高所に墓が造られたのかは、ミステリーに包まれています。
入山公廟は、岡城や竹田の町並みを一望できる絶好のビュースポットだ
岡城はもちろん、竹田市全体の豊かな風土と景観には、阿蘇山の火山活動が密接に関連していることが分かります。すでに登城済みの人も、そうでない人も、阿蘇溶結凝灰岩に着目して、岡城を訪ねてみてはいかがでしょうか。そうすれば、ただの岡城攻略で終わらず、阿蘇山に育まれた豊後竹田の大地を、とことん満喫できるはずです。
住所:大分県竹田市大字竹田2889
電話:0974-63-1541(観覧料徴収所)
アクセス:JR豊肥本線「豊後竹田」駅から徒歩約30分(タクシー約5分 ※約2km)
▼岡城や竹田城下町のことをもっと知るなら
2020年3月リニューアル!
岡城跡公式サイト https://okajou.jp/
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※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています
執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
奈良県出身。国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影・ガイド。『JCB THE PREMIUM』(JTBパブリッシング)や『サライ.jp』(小学館)など。岡城(大分県竹田市)で修業後、各地を転戦している。