2024/02/15
萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第74回 久留米城 本丸を囲む石垣が圧巻!築後藩主・有馬氏の居城
城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。74回目の今回は、毛利秀包が近世城郭へと整備し、久留米藩を治めた有馬氏によって完成された久留米城(福岡県久留米市)です。その改修の歴史を振り返りながら、大名有馬家の居城にふさわしいスケールを感じさせる見どころを紹介します。
本丸南西隅の石垣
毛利秀包が改修し、田中吉政の支配下へ
久留米城(福岡県久留米市)は、蛇行する筑後川を背にし、本丸、二ノ丸、三ノ丸、外郭が北から南に向けて並びます。かつては、筑後川から水を引き込んだ水堀が各曲輪間に設けられていました。外郭の西・南・東側には、城下町が展開。かなり大規模な城と城下町だったことが想像できます。
天正15年(1587)に豊臣秀吉が九州を統一すると、筑前・筑後を拝領した養父の小早川隆景に従って、毛利(小早川)秀包がこの地に入ります。秀包は16世紀初頭に在地の土豪が築いたとされる篠原城を大改修し、石垣づくりの久留米城へと一変させました。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの後は、田中吉政の領地となりました。吉政は柳川城(福岡県柳川市)を居城とする一方で久留米城を重視し、次男の田中吉信(則政)を城主としています。しかし本城ではなく支城であったため、元和元年(1615)に江戸幕府から公布された一国一城令により廃城となりました。
月見櫓跡
廃城となるも復活!有馬豊氏が大改修
廃城となっていた久留米城を再生させたのが、元和7年(1621)に筑後に入った有馬豊氏です。大幅に加増され入国した豊氏は21万石の大名にふさわしい居城とすべく、幕府に許可を得て久留米城の大改修を行いました。本丸を囲む壮大な石垣が当時の壮大な姿を連想させます。
豊氏が入国した頃の久留米城は荒れ果て、豊氏自身もしばらく城下の商人宅などに間借りしていたとも伝わります。本丸やその周辺の堀と屋敷の整備には他藩の協力も得たようで、肥後・熊本城主の加藤家が修築した堀は「肥後堀」と呼ばれます。
久留米城の整備は、かなりの時間をかけて進められたようです。幕府への配慮、領民への負担の軽減、江戸城の築城工事費にかかる財政負担、島原・天草一揆への出陣などが影響したのでしょうか。城と城下町が一応の完成をみたのは、4代・頼元のときとされています。
明治初期に撮影された本丸の写真を見ると、高い石垣の上に3つの三重櫓(坤(ひつじさる)櫓・太鼓櫓・巽櫓)が建ち並び、それらが二重の多聞櫓でつながれています。かなりの威容に驚きます。かつては7つの隅櫓が建ち、多聞櫓で連結していました。巽櫓がもっとも大きく、天守代用とされていたようです。
冠木御門跡
▶「萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜」その他の記事はこちら
執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。