萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第72回 箕輪城 武田・上杉・北条、そして徳川へ 争奪と改変が刻まれた西上野の要

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。72回目の今回は、次々と領主が移り変わる群雄割拠の西上野(こうずけ)で中核的な城だった箕輪城(群馬県高崎市)です。支配者が入れ替わるごとに繰り返された改修の変遷をたどりながら、ダイナミックな空堀などの見どころを紹介します。

箕輪城、大堀切
二の丸から見る大堀切と土橋、郭馬出

圧巻の巨大空堀!関東を代表する土の城

関東地方らしい、ダイナミックな空堀で知られます。榛名山からのびる台地のほぼ先端、関東平野との境界に位置。比高は20メートル程度ですが、本丸を囲む空堀は幅30〜40メートル、深さ約10メートルにおよびます。堀は場所によっては数メートル埋まっており、深さ約9メートルの大堀切も現在の地表面から7.5メートル以上深かったことが判明しています。

この城のおもしろさは、戦国時代に上野西部の要として幾度も歴史の舞台に登場し、支配者が入れ替わるたびに改修していることです。時代の転換点を物語る変遷をたどれることが大きな魅力といえるでしょう。

15世紀後半〜末に築城したとされるのは、上野西部を支配していた長野氏。長野氏は支配体制を固め勢力を拡大しましたが、16世紀後半になると、関東地方には南から北条氏、北から上杉氏、西から武田氏が侵攻し、西上野も三つ巴の戦いに巻き込まれることになります。

武田信玄の侵攻後は、真田幸隆らが箕輪城の改修を命じられています。武田氏も支配拠点として重視したということでしょう。武田氏滅亡後は、織田信長の重臣・滝川一益が入城しましたが、同年に北条氏に敗退。支配権を奪った北条氏もやはり箕輪城を重視し、北条氏邦が鉢形城(埼玉県寄居町)と兼務する形で箕輪城主になっています。北条氏邦は天正15年(1587)に箕輪城を改修しており、北条氏が豊臣秀吉に備えて北関東一円の城を強化しはじめた時期と重なることから、箕輪城もその一角とされたと考えられます。

北条氏が滅亡しても箕輪城の歴史は終わらず、関東に入った徳川家康が家臣の井伊直政を置いています。直政は慶長3年(1598)に高崎城(群馬県高崎市)に移るまで、箕輪城を支配しました。

箕輪城、石垣
鍛治曲輪に残る石垣

3時期に大別、部分的に石の城へ改変

発掘調査から、大きく3時期(第1期:長野・武田時代、第2期:北条時代、第3期:井伊時代)の改修が推定されています。長野氏の時代には本丸の南東側と北西側に堀があり、北条時代に一部が埋め立てられながら西側の堀が開削され、その後さらに埋め立てと拡張がされたようです。

虎韜(ことう)門から鍛治曲輪、三の丸、二の丸へと至る大手ルートに多く残る石垣も、改修の証といえるでしょう。壮大な土の城の一部が、石垣の城へと改変されているのです。鍛治曲輪や三の丸の最大高4.1メートルの石垣は、井伊時代(第3期)に積まれたもの。下層から北条時代(第2期)と推定される石垣が発掘調査で見つかっているのがおもしろいところです。大堀切の堀底でも、堀切に直交する石垣が見つかっています。

平成28年(2016)には、発掘調査をもとに郭馬出西虎口が復元されました。二の丸南側の大堀切にかかる土橋を渡った「郭馬出」と呼ばれる区画の西側に設けられていた門です。慶長5年(1600)以前の確認されたものとしては関東地方最大規模。御前曲輪西虎口や本丸西虎口でも門跡が確認されています。

箕輪城、空堀
本丸と御前曲輪の間の空堀

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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