萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第71回 明石城 異例の築城!徳川幕府の特例で築かれた西国街道の要

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。71回目の今回は、水陸交通の要所にあり、徳川幕府が西国大名を牽制する重要な役目を果たしていた明石城(兵庫県明石市)です。トレードマークである2つの現存三重櫓や高石垣など、圧倒的なスケールや高い防御力を感じさせる見どころを紹介していきましょう。

明石城、三重櫓
南帯曲輪から見上げる2つの現存三重櫓

鉄壁の石垣と現存する2つの三重櫓

いかにも鉄壁といった一直線の高石垣と、その両端にそびえる2つの大きな三重櫓。JR明石駅のホームから見える勇姿に見惚れます。立派な2つの櫓は、全国に12棟しか残っていない三重櫓のうちの2棟です。

明石城(兵庫県明石市)は南向きにつくられた城で、明石駅がある南側が正面にあたります。駅のホームから見える姿は、江戸時代にも明石城の“顔”だったのです。明石城の南側には西国街道(山陽道)が東西に通り、さらに南側には明石海峡が広がっていました。明石城は、西国街道および大坂湾の出入り口となる明石海峡を押さえる要衝にある重要な城。地形の使い方、街道と城下町の配置からも、築城の狙いが浮かび上がります。

明石城は、元和3年(1617)に初代明石藩主となった小笠原忠政(後の忠真)が元和5年(1619)から築いた城です。武家諸法度公布後に新築されるのは、極めて異例。江戸幕府が豊臣恩顧の西国大名を牽制すべく築かせた特例の城のひとつと考えられます。同時期に築かれた尼崎城(兵庫県尼崎市)、大改修された高槻城(大阪府高槻市)などとともに、徳川方の防衛拠点だったのでしょう。これらの城を直線で結ぶと、幕府が描いた防衛ラインが見えてきます。

明石城、天守台の石垣
稲荷曲輪から見た天守台の石垣

表裏で別の顔、地形の使い方にも注目

明石城は東方から台地状にのびる段丘の突端付近を利用した城で、標高約25m地点に本丸、その西側に稲荷曲輪、東側に二の丸と東の丸を置き、それぞれ高い石垣でがっちりと囲んでいます。それらと本丸南側下段の三の丸や居屋敷曲輪、本丸北側の北出曲輪も含めた一帯が中堀で囲まれ、城の中心部となっていました。

本丸南側の石垣は、東の丸から稲荷曲輪までを含めると約380m。高さは、三の丸から櫓台下の帯曲輪まで約5m、そこから約15mあり、合計するとなんと約20mに及びます。本丸と二の丸は巨大な堀切で分断され、削平した地面の両脇が石垣で固められていました。本丸の四隅にはかつて4つの三重櫓が建てられ、そのうち南東端の巽(たつみ)櫓と南西端の坤(ひつじさる)櫓が残っています。

おすすめは、二の丸から堀切越しに見る巽櫓と巽櫓下の高石垣です。二の丸への虎口と番ノ門の外枡形、二の丸とをつなぐ土橋が重なり、高石垣の迫力を堪能できます。本丸の北側も見逃せません。南側が華やかな表の顔だとすれば、北側は背後を守る剛健な壁といったところ。ガラリと雰囲気が変わり、桜堀とセットで北側の強靭な防御線となっています。三の丸あたりにいると平坦な城に思えますが、城内をくまなく歩くと、台地の複雑な起伏を利用しながら防御性を高めて設計された城だと気づくはずです。

明石城、石垣
桜堀と本丸北側の石垣

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。