萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第70回 人吉城 中世と近世の姿が共存、幕末は西南戦争の舞台に

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。70回目の今回は、中世から球磨地方を治めた相良氏が約670年間拠点としていた人吉城(熊本県人吉市)です。全国的に珍しいはね出し石垣をはじめとする見どころや、西南戦争で激戦の舞台となった歴史について見ていきましょう。

人吉城
球磨川と胸川の合流点にある

水ノ手門跡、はね出し石垣、地下室、御下門跡など見どころ満載

人吉城(熊本県人吉市)は、鎌倉時代に相良(さがら)長頼が人吉荘の地頭として入城し、相良氏が明治維新まで約670年間居城とした城です。文明2年(1470)頃に12代・相良為続(ためつぐ)が本格的に築城。広大な山城の一部を、天正17年(1589)に20代・相良長毎(ながつね)が石垣づくりの城へと改変しました。中世の城と近世の城の姿が残る希少な城でもあります。近世の人吉城は、寛永16年(1639)頃に完成したとみられます。

球磨川(くまがわ)と胸川が合流する丘陵上に築かれ、球磨川を挟んで北側に、城下町がありました。球磨川は、日本三大急流のひとつ。城の防御壁、外堀として機能する一方で、江戸時代には年貢や物資の輸送に欠かせない水路でもあったようです。7か所の船着き場のうち最大規模を誇る水ノ手門付近には米蔵が置かれ、船蔵や番所の存在も発掘調査で判明しています。米蔵からは、年貢米を示す木札も見つかりました。

本丸、二の丸、三の丸を中心に、麓には城主の御館が置かれ、西外曲輪には武家屋敷が並んでいました。現在は大手門北側の多門櫓、多門櫓北側の長塀、西北角の角櫓などが復元されています。本丸には天守はなく、護摩堂が建てられていました。

屋根のように突出部がつけられた「はね出し石垣」は、文久2年(1862)の寅助(とらすけ)火事の後に、御館の防火目的でつくられました。五稜郭(北海道函館市)や品川台場(東京都港区)など、幕末に築かれた西洋式の城や台場以外での例はない、全国的にも珍しいもののひとつです。発掘調査で見つかった「井戸を持つ地下室」も、謎めいた珍しいもの。寛永17年(1640)の御下(おしも)の乱で焼失した、相良清兵衛と相良内蔵助の屋敷から見つかりました。全国でも例がなく、本丸護摩堂の湯殿と同じく行水施設と推察されています。

人吉城、はね出し石垣
はね出し石垣

城から見る官軍の本営跡、城下には西郷隆盛の滞在地も

西南戦争の際には激戦の舞台となり、三の丸からは、西南戦争の際に官軍が着陣した村山台地が見えます。官軍は市街地が一望できる台地の先端(現在の人吉西小学校付近)に砲台を築き、人吉城を目がけて総攻撃をしかけたとされます。西郷軍は人吉城三の丸に大砲を持ち込んで砲撃したとみられますが、本営までは届かなかったようです。

西郷隆盛も人吉城下に33日ほど滞在したとされています。新宮簡の屋敷は、官軍陸軍裁判官だった新宮嘉善(かぜん)が人吉隊一番隊の小隊長であったことから西郷軍幹部の宿舎となりました。隆盛の宿舎も、人吉城西側の永国寺ではなく、嘉善の屋敷だったという説が有力です。人吉隊(一番隊)は不平士族による部隊のひとつで、人吉に集結後は二番隊、三番隊も結成されました。文久2年(1862)に人吉城下で大火災があった際、薩摩藩から復興支援を受けたことから恩義があり、西郷軍へ味方することになったようです。

現在、新宮屋敷の跡地に建っている御仮屋屋敷は藩主が建てた屋敷で、西南戦争後に新宮家が拝領し現在地に移築されました。門は人吉城の唯一の現存遺構で、城主の御館の水の手側にあった堀合門を移築したものです。

人吉城、登城口、御下門跡
本丸や二の丸に登る際の登城口、御下門跡

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。


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