萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第57回 伊賀上野城 大坂を守る城から対峙する城へ

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。57回目の今回は、全国で一、二を争う高さの高石垣で知られる伊賀上野城です。築城名人・藤堂高虎による大改修で近世城郭となった伊賀上野城の特徴を、改修前の時代と比べながら見ていきましょう。

伊賀上野城、高石垣
本丸西側の高石垣

圧巻!全国屈指の高石垣

日本でトップクラスの高さを誇る、伊賀上野城(三重県)の高石垣。もっとも高い本丸西側の石垣は、高さ約30mにも及びます。

この高石垣を築いたのは、慶長13年(1608)に伊賀に入った藤堂高虎です。筒井定次が天正13年(1585)から築城した城を、高虎が慶長16年(1611)から大改修しました。

筒井時代の伊賀上野城は、豊臣秀吉政権下で誕生しました。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの後、秀吉は対家康を意識して各所に大名を配置。大和・和泉・紀伊を拝領し郡山城(奈良県)に羽柴秀長が入ると、旧郡山城主の筒井定次は伊賀へ移封となり、そこで築いたのが伊賀上野城でした。

筒井時代の本丸は、高虎時代の城代屋敷跡にあったとみられます。高虎は、筒井時代の旧本丸西側に広がる丘陵を切り開き、城域を拡張して新たな本丸としたようです。

伊賀上野城、復興天守
伊賀上野城の復興天守

社会情勢の変化に応じてがらりと変化

伊賀上野城の最大の特徴は、筒井時代と高虎時代とで城の向きがまったく異なることです。筒井時代は防御上の力点が北向きなのに対し、高虎時代は西向きにがらりと改変されています。大手道と城下町も、筒井時代が北側に展開していたのに対し、高虎時代は南側でした。

その違いは、社会情勢の変化によるものです。対家康を意識して筒井定次が築いた伊賀上野城は、本丸北側に大手口があり、東西に走る大和街道を取り込む形で城下町が形成されていました。大和街道は、東国の家康が大坂へ向かう最短ルート。伊賀上野城は、秀吉の居城である大坂城(大阪府)を背後に置き、家康の進軍ルートににらみを利かす、大坂城の出城のような役割だったのでしょう。

これに対して、高虎の城は大坂方面を向いています。本丸南西隅から東北隅に構築された長大かつ高い石垣は、まさに大坂からの進撃を迎え撃つ鉄壁なのです。本丸を西側に拡張しその北西隅に天守を建てたのも、大坂方面に向けての威嚇のひとつでしょう。本丸西側には水堀を隔てて御殿があり(現在の三重県立上野高校第二グラウンド)、その西側には西之丸が置かれていました。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、家康はまず京都を押さえ、その後に大坂城を囲むようにして同心円状に主要街道上の城を強化していたことがうかがえます。新築や改修をし、城主を徳川方へ取り込み、大坂との決戦に備えて体制を整え、牽制を強めたようです。伊賀上野城はその包囲網の最終段階の一角とも考えられ、文献からは万が一の際に家康が入る想定があったことも指摘されています。

伊賀上野城、高石垣
本丸西側の高石垣

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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