お城の現場より〜発掘・復元最前線 第44回【中城城】琉球三山時代に築かれた城壁と刻印石を発見

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第44回は、琉球王国時代の築城の名人・護佐丸(ごさまる)によって完成された巨大な城郭、中城城(沖縄県中頭郡中城村)。琉球三山時代の14世紀中頃~後半に築造された城壁と刻印石の発見について、中城村教育委員会の渡久地真さんが紹介します。

護佐丸が完成させた巨大なグスク

13世紀の沖縄では、「按司(あじ)」と呼ばれる豪族たちが争いを繰り返しており、14世紀になると北山・中山・南山の3つの緩やかな連合体にまとまった。そして、1429年に中山の尚巴志(しょうはし)がこれを統一して琉球王国が誕生した。中城城(なかぐすくぐすく)の創建年は不明だが、14世紀中頃から後半の間に、石積みの城郭が築かれたと考えられている。その後、尚巴志に仕えていた護佐丸が、1440年に移ってきて北の郭と三の郭を増築して完成させた。

中城城は中城村の北端に位置しており、標高約160mの丘陵の尾根上に築かれた六つの郭からなる総石垣造りのグスクで、各郭を区画する城壁(石塁)は琉球石灰岩の切石で築かれており美しい曲線を描いている。

中城城における整備事業は1995年度から開始され、年次計画にしたがって城壁の修復や整備に伴う発掘調査を実施している。近年の調査では重要な発見が相次いでおり、今回はその中でも特に重要な発見となった14世紀中頃~後半に築造された城壁と刻印石の発見について紹介する。

中城城、復元鳥観図
15世紀前半ごろの復元鳥観図(作画/香川元太郎、所蔵/中城村観光協会)

14世紀中頃~後半ごろの城壁を発見

今回、14世紀の城壁が見つかった一の郭北側城壁は、上部が布積み、下部は粗割り石材を積んだ押え石積が設けられた二段構造となっており、全長約82m、高さ13~14mと城内で最も広い面積を持つ。築造から長い年月を経て各所で石材の緩みや孕みだしが見られたため2016年度から城壁の解体、積み直しを実施している。

中城城、北側城壁
修復前の北側城壁

2019年度の工事で城壁西側の上部(15世紀前半築造)と下部の押え石積(20世紀初頭築造)の解体を実施した。押え石積は2箇所(幅30m/高7m、幅12m/高4m)で石材をV字状に取り外したところ、中から古い城壁が発見された。この城壁基礎部での発掘調査では、根石が13世紀後半~14世紀前半の遺物包含層を掘り込んで設置されているのが確認できたことから、この城壁が14世紀中頃~後半に築かれたということが判明した。

中城城、城壁
14世紀中頃~後半築造城壁の発見状況(城壁の白い部分)

中城城、発掘調査
写真中央下部に見える赤土の部分が発掘調査箇所

中城城、発掘調査箇所
上の画像の丸く囲んだ発掘調査箇所の堆積土の断面

これらの調査成果から、一の郭北側城壁が現在見られるような姿となるまでには、次の4つの時期の変遷があることが分かった。

中城城、変遷図
4時期の変遷図

沖縄のグスクで城壁の年代が明確に押さえられた事例は少なく、この調査では、当時の琉球における築城技術の一端をうかがい知ることができる発見となった。さらに、グスクの築造変遷を確認することができたのも大きな成果であった。

なお、14世紀中頃~後半に築造された城壁(Ⅱ期)は、前面の押え石積を積み直したため現在はほとんど見ることができなくなっている。

大量に発見された刻印石

2013年度の発掘調査で一の郭西側城壁(15世紀前半築造)から刻印石が2個発見された。その後、刻印石は先述した2016年度以降の北側城壁修復工事のさいに続々と発見されており、一の郭を中心として現在までに100個近く発見されている。

沖縄では首里城(沖縄県那覇市)、浦添城(沖縄県浦添市)などでも刻印石が発見されているが、中城城における発見数は圧倒的に多く、今後の調査により数はさらに増加するものと思われる。今のところこれら刻印が、どのような意味を持つのかは分かっていない。これを機に他の城でも刻印石が発見され、今後の研究の進展につながるものと期待される。

中城城、刻印の種類
刻印の種類

中城城、刻印石
(左)刻印石T  (右)刻印石F

中城城は14世紀中頃~15世紀前半の琉球における最先端の技術を用いて築かれたグスクであり、沖縄戦の戦禍もほとんど受けなかったこともあり現在に至るまで築城時からの遺構を多く残している。今後の調査により、さらに築城技術の解明が進むものと期待している。

中城城(なかぐすく・ぐすく/沖縄県中頭郡中城村)
創建年は不明だが、伝承では先中城按司(さちなかぐすくあじ)がグスクの主要部を築いたとされており、発掘調査により14世紀中頃~後半には石積みで城郭が築かれていたということが判明している。1440年、中山王の命により座喜味城主の護佐丸(ごさまる)が中城城に移封され、北の郭と三の郭を増築。護佐丸以後も城内に番所(明治期に役所に改編)が置かれ、1945年まで地域行政の中心地として使用された。

執筆/渡久地真(中城村教育委員会)
写真提供/中城村教育委員会

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