籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する|小和田哲男 第4回 稲葉山城の戦い

戦国時代の武将たちの戦略の一つとして、お城に立て籠もる「籠城戦」がありました。籠城戦というと、敵の攻撃を耐え続けた末に籠城側が最終的に破れてしまうイメージがありますが、実際はどうだったのか? ドラマの時代考証などを担当されている小和田哲男先生が、籠城側が敵を撃退した戦いを通じて、その戦略を紐解きます。第4回のテーマは、斎藤道三が織田信秀の侵攻を2度にわたって退けた「稲葉山城の戦い」。道三が美濃国盗りへと大きく前進した合戦の背景とその行方を見ていきましょう。

美濃守護土岐氏と斎藤道三

土岐氏は清和源氏頼光流で、頼光の玄孫光信が美濃国土岐郡に土着し、土岐氏を称したとする説、その孫にあたる光衡(みつひら)を始祖とする説があり、現在では光衡説が有力視されている。一時は尾張・美濃・伊勢3ヵ国の守護職を兼ねていたが、のち、美濃一国となり、戦国時代を迎えている。

戦国期の土岐氏の略系図は、
戦国期の土岐氏の略系図
となり、頼武が守護となっていたが、天文5年(1536)、兄頼武に代わって弟の頼芸(よりのり)が守護となっている。頼芸の家臣だった長井規秀が頼芸を擁立し、頼武追い落としをはかったからである。このあと長井規秀は美濃の守護代だった斎藤氏を名乗り、斎藤利政となる。これが道三である。頼芸が守護館の川手城に入り、道三が稲葉山城に入った。家督争いに敗れた頼武は大桑城に退いている。

天文12年(1543)、その大桑城を道三が攻め、頼武・頼純父子は城を守ることができず、越前の朝倉孝景(宗淳)のもとに落ちていった。そして、翌年9月、朝倉孝景が尾張の織田信秀と手を結び、土岐頼武・頼純を擁して美濃に攻め込んできた。第1次稲葉山城の戦いである。

2度とも勝った道三の稲葉山城籠城戦

稲葉山城一の門址
発掘調査で姿を現わした稲葉山城一の門址

第1次稲葉山城の戦いがあったのは天文13年(1544)9月23日で、道三は敵軍を巧みに稲葉山城下の井口(いのくち)に誘い込み、撃退に成功している。この段階では、道三と頼芸は一体となっており、戦い後、大桑城には頼芸が入ったようである。

この第1次稲葉山城の戦いのことは『信長公記』に書かれていないが、3年後の天文16年(1547)の第2次稲葉山城の戦いについてはくわしく記されている。同書首巻から関係する部分を次に引用しておく。

或時、九月三日、尾張国中の人数を御憑なされ、美濃国へ御乱入。在々所々放火候て、九月廿二日、斎藤山城道三居城稲葉山山下村々推詰焼払ひ、町口まで取寄、既に晩日申刻に及び御人数引退かれ、諸手半分ばかり引取候所へ、山城道三噇と南へ向て切りかゝり、相支候といへども、多人数くづれ立の間守備事叶はず、備後殿御舎弟織田与次郎・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門尉・千秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟・毛利藤九郎・岩越喜三郎初めとして歴々五千ばかり討死なり。

この「備後殿」というのが織田信秀で、稲葉山城下まで攻め込みながら大敗北を喫したことがわかる。「申刻」、すなわち15時から17時ころ、城攻めをやめて撤退にかかったとき、道三の軍勢が城から打って出て、5000人が犠牲になったという。5000という数はそのままには信用できないが、織田方の完敗だったことは明らかである。

道三に追放される土岐頼芸

斎藤道三時代の稲葉山城石垣
斎藤道三時代の稲葉山城石垣

2度も稲葉山城下まで攻め込みながら稲葉山城を落とすことができなかった織田信秀は、そこで思い切った方針転換を打ち出す。道三と手を結ぶのである。この第2次稲葉山城の戦いがあった天文16年のころ、信秀は三河の支配をめぐって、駿河・遠江の今川義元とも戦っていたのである。東と北、2人の敵を相手にすることは得策でないと考えていた。また、道三の方も、美濃の実権を土岐氏から奪うために、他国の敵と戦うのは得策でないと考えており、信秀との同盟に踏み切ることになった。

翌天文17年(1548)秋、講和が結ばれ、翌18年2月24日、道三の娘の帰蝶が信秀の嫡男信長に嫁いでいる。

こうして、道三が2度にわたって織田勢を撃退したことで、道三が土岐頼芸に代わって美濃の実力者となったことは誰の目にも明らかとなったわけであるが、どういうわけか、頼芸がいつ、道三に追放され、近江の六角定頼のもとに落ちていったのかがわからないのである。『石山本願寺日記』から、同19年10月の時点で、室町幕府が頼芸に美濃国の国役の沙汰をしているので、その時点までは守護の扱いを受けていたことがわかる。

また、同20年と推定される7月5日付の今川義元宛近衛稙家書状(「近衛文書」)からは、頼芸がすでに六角定頼の保護を受けていることが読みとれるので、天文19年10月以降、20年7月までの間に美濃を追われたものと推定される。

道三にとって、2度の籠城戦を勝ち抜いたことが美濃国盗りの大きな一歩だったことがわかる。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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