理文先生のお城がっこう 歴史編 第57回 秀吉の城9(陣城・石垣山城)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。これまで豊臣秀吉が築いたお城の特徴について見てきましたが、今回は豊臣秀吉が小田原攻めの本陣として築いた石垣山城(神奈川県小田原市)がテーマです。陣城でありながら本格的な城郭として築かれた石垣山城の構造を、一夜城と呼ばれる由来をはじめ数々のエピソードを交えて説明します。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、自分が暮(く)らしたり、政治(せいじ)を執(と)り行ったりするための城だけでなく、戦いの時の自分が寝泊(ねと)まりするためだけの城も築(きず)いています。普通(ふつう)大将(たいしょう)は、戦いの様子を見に行くだけなので、部下が築いた城の御殿(ごてん)に入るとか、近くの大きな寺に寝泊まりしていました。新しい城を造(つく)るとなると莫大(ばくだい)な費用(ひよう)と期間を必要とするため、短期間の戦争のためにそこまでする人はいなかったのです。織田信長(おだのぶなが)ですら、(とりで)の中に自分専用の御殿を造っただけです。ところが天下人となった秀吉は、極(きわ)めて短期間で大きな城を築き上げたのです。今回は、そんな城の一つ「石垣山(いしがきやま)」について見ていきましょう。

史跡石垣山実測図
史跡(しせき)石垣山実測(じっそく)図『小田原市史 別編 城郭』(小田原市立中央図書館所蔵)

小田原攻めの開始

天正18年(1590)3月、秀吉は22万を超える程(ほど)の大軍勢(ぐんぜい)をいろんな国から集めて、小田原北条氏(ほうじょうし)の籠(こも)小田原城(神奈川県小田原市)を攻(せ)めるために都を出発します。小田原城へ軍を進めるために、必ず越(こ)えなくては行けない箱根峠(はこねとうげ)を簡単に越えられないようにするために、北条氏はその前に山中城(静岡県三島市)を築きました。北条方が持てる力と技のすべてを使って築き上げた山中城を半日で落城させ、4月には早雲(そううん)寺(神奈川県箱根町)に秀吉が寝泊まりする本陣(ほんじん)を置き、およそ15万の大軍勢で陸と海から小田原城を取り囲(かこ)んだのです。

総延長9㎞もの惣構(そうがまえ)(城下町全体を守るために取り囲むように造った堀(ほり)と塁(るい)の防衛(ぼうえい)ラインのことです)で固めた小田原城を見た秀吉は、落とすまでに時間がかかることを予想したのです。そこで、すぐに自分が寝泊まりして指揮(しき)を執るための本陣となる城を造り始めました。戦いの最中での城造りであり、秀吉が寝泊まりすることが主目的の城でもあったためか、この城に対する具体的な記録はほとんど残されていません。城は秀吉の陣で使われた後、一時的に奥州(おうしゅう)攻めの時に使われた可能性はありますが、ほとんど当時の姿(すがた)のままで残されました。そのため、曲輪(くるわ)の位置や大きさ、石垣(いしがき)の有無などの構造(こうぞう)が判明(はんめい)します。

城は、芦ノ湖(あしのこ)を取り巻(ま)くように連なる箱根外輪山(がいりんざん)から分かれて伸(の)びるいくつかの尾根(おね)のうち、北側に早川(はやかわ)の渓谷(けいこく)を見下ろす標高約260mの尾根の上に位置しています。東海道は、この渓谷の北側の麓(ふもと)に沿(そ)うように東西に走っていました。この尾根の上からは惣構で囲まれた小田原城全体を見下ろすことができました。当時は笠懸山(かさかけやま)と呼(よ)ばれていましたが、後に石垣山と呼ばれるようになります。

石垣山一夜城跡
三ノ丸新堀土塁跡近辺から望んだ石垣山一夜城跡

秀吉は、のべ4~5万余(よ)人を動員し、急ピッチで工事を進めます。築城開始からおよそ1か月後、秀吉は北政所(きたのまんどころ)(おね)宛に「早くも石垣や台所が完成し、やがて御殿や天守も完成する」と手紙を送っています。6月20日付で、茶人の千利休(せんのりきゅう)は「関白様が築城を命じた城が、今月中には完成します」という手紙を優(すぐ)れた弟子である古田織部(ふるたおりべ)に送っています。『家忠(いえただ)日記』6月26日、秀吉が早雲寺から石垣山城へ本陣を移(うつ)したと記録されていますので、城はほぼ3か月で住めるような姿かたちになったと思われます。

城をめぐる伝説とエピソード

あっという間に完成したというそのスピード感が、様々な伝説を生みました。伊達政宗(だてまさむね)が言った言葉や行動などを記録した『木村右衛門覚書(きむらうえもんおぼえがき)』には、政宗が6月9日に続いて翌日(よくじつ)も城に行くと、昨日まで無かった白い壁(かべ)が完成していたとあります。政宗は、白壁が「紙を貼(は)ったもの」と見破(やぶ)り、秀吉や諸(しょ)大名を感心させたとの伝承(でんしょう)があります。あるいは、城がある程度(ていど)完成するまで周囲(しゅうい)の樹木(じゅもく)をそのままにしておき、完成直前に周(まわ)りにあった樹木を切り倒(たお)し、小田原城から見えるようにしたというものです。北条方は、まるで一晩(ひとばん)のうちに城が突然(とつぜん)(あらわ)れたように思えたため「秀吉は神か天狗(てんぐ)か」と腰(こし)を抜(ぬ)かし、1週間後に降伏(こうふく)したと言います。以来、この城は一夜城と呼ばれるようになったのです。

石垣山城推定復元イラスト
建築途上の石垣山城推定復元イラスト(考証:西股総生/作図:香川元太郎)

こんな話もあります。完成した石垣山城から小田原城が見下ろせる場所に徳川家康(とくがわいえやす)を連れ出した秀吉は、「この戦に勝ったらそちに小田原城と関八州(かんはっしゅう)を与えよう」と約束し、2人は小田原城に向かって放尿(ほうにょう)(尿を出すことです)したとも伝えられます。後にこの興味(きょうみ)深い話は「関東の連れ小便(連れ立って便所に行くことです)」と言われるようになります。このように、小田原合戦に関わる伝説は数多く残されています。

石垣山から望んだ小田原城
石垣山から望んだ小田原城。惣構の中の城の様子が手に取るように見えたと思われます。この景色を見ながら、秀吉は家康に関東移封(いふう)の話をしたのでしょうか。

石垣山城の姿

これだけ多くの面白い話が残る城にもかかわらず、その姿かたちを伝える資料(しりょう)は残されていません。しかし、秀吉が築いた状態(じょうたい)で城跡(じょうせき)が残っているため、ある程度その構造が解(わか)ります。本丸(本城曲輪)は約100m四方ほどの規模(きぼ)で、最も高い場所にあります。北西隅(すみ)を跳(と)び出させて天守台を造り、北と東に厳重(げんじゅう)桝形(ますがた)門が置かれていました。本丸の北側の下にL字形をした、本丸とほぼ同じくらいの大きさの二の丸(馬屋(うまや)曲輪)、その北下に井戸曲輪、北側の先端には長方形(約130×30m)の三の丸(北曲輪)を設(もう)け、南東隅に北口外門がありました。

石垣山城、天守台
本丸(本城曲輪)の北西隅角部分から突出(とっしゅつ)するような形で天守台が築かれています。現在(げんざい)は大きく崩壊(ほうかい)していますが、そこかしこに石垣石材が散乱(さんらん)しています。

北の端(はし)には堀切(ほりきり)が掘られ、尾根筋(すじ)からの敵(てき)が進むことができないように遮(さえぎ)っています。南側に、方形の南曲輪、天守の下に西曲輪、幅30m程(ほど)の大堀切を挟(はさ)んで出曲輪が配されていました。東側は、上から階段状(かいだんじょう)に三段の東曲輪が見られます。南曲輪と東曲輪の間が東口外門です。これらの曲輪は、すべて高石垣によって構成されていました。陣城(じんじろ)とは言いながら、箱根山を越えた初めての本格的(ほんかくてき)な石垣で築かれた城になります。併(あわ)せて、瓦(かわら)も出土し、関東初の瓦葺(かわらぶき)建物の城が登場したことになります。

城への通路は、2つのルートがありました。1つ目は東口外門から東曲輪と南曲輪の間を登り、鉤(かぎ)の手に折れて東口中門を経(へ)て本丸東口門へと繋(つな)がる通路です。もう1つは、三の丸の南東隅に位置する北口外門から二の丸と井戸曲輪の間を通り、北口中門へ入り、二の丸を経由(けいゆ)して本丸北口門へと入る通路です。江戸時代に小田原藩(はん)が作成した「太閤様御陣城相州石垣山古城絵図(たいこうさまごじんじろそうしゅういしがきやまこじょうえず)」では、東側を大手道としています。

石垣山城
東口外門から東曲輪と南曲輪の間を登り、鉤の手に折れて東口中門を経て、本丸東口門へと繋がる通路の現況です。周囲から崩れ落ちた石材で、通路が埋(う)まっています。

石垣山城で最も注目される遺構(いこう)が、井戸曲輪です。もともとあった沢(さわ)をL字状の石塁を設(もう)けてダムのようにせき止め、さらに内部に方形の石組を二段に渡り築き、最深部の水の湧(わ)き出る場所から石段によって登る構造になっています。二の丸からは、深さ約25m、大外で測(はか)れば50m四方程の規模になります。

石垣山城
石垣山城内で最も石垣の残りが良い場所の一つで、見事な石垣を見ることができます。谷筋を堰(せ)き止めた場所に、石を組んで湧水(わきみず)を集める構造で、今も水が湧き出ています

秀吉は、茶頭(さどう)(茶事をつかさどるかしら)である千利休をこの合戦に一緒(いっしょ)に連れてきていました。今も東京国立博物館に残る真竹(まだけ)の2節を残し、一重の切れ込(こ)みを入れた簡潔(かんけつ)な竹一重切花入(たけいちじゅうぎりはないれ)「園城寺(おんじょうじ)」は、竹製(せい)の花入の流行を生む最初期の古典作品としてあまりにも有名です。利休が、韮山(にらやま)(静岡県伊豆の国市)の竹を使用して作ったとされています。利休は秀吉の求めに応(おう)じ石垣山城中で茶会を催(もよお)しています。その時の水は、この井戸から汲(く)み上げたのでしょう。また、この井戸は別名「淀君(よどぎみ)化粧(けしょう)井戸」とも言われています。秀吉は、側室である淀の方まで石垣山城に呼び寄(よ)せていたのです。まさに、余裕(よゆう)しゃくしゃくの様子で城攻めを行ったのです。

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井戸の最深部からの湧水 現在でも水が湧き出しています。この水を使って千利休が茶をたて、秀吉や淀君が飲んだと思うと、心躍る感じがします

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※砦(とりで)
取り出して築く城の意味です。居城(きょじょう)(本城)の外の要所に築く小規模な構えの城を指します。出城(でじろ)も同じ意味になります。

※惣構(そうがまえ)
城だけでなく、城下町まで含(ふく)めた全体を堀や土塁などで囲い込んだ内部、または一番外側に設けられた城を守るための施設のことです。「総構」と書くこともあります。

※天守台(てんしゅだい)
天守を建てるための石垣の台座(だいざ)のことです。

※枡形(ますがた)
門の内側や外側に、攻め寄せてくる敵が真っすぐ進めないようにするために設けた方形(四角形)の空いた場所のことです。近世の城では、手前に高麗(こうらい)門、奥に櫓(やぐら門が造られるようになります。

井戸曲輪(いどくるわ)
井戸を設けた曲輪のことです。ため池や湧水地など、水を確保するための施設がある曲輪のことです。井戸が無く水を確保(かくほ)している区画全般(ぜんぱん)のことは、通常(つうじょう)「水の手曲輪」と呼んでいます。

※堀切(ほりきり)
山城で尾根筋や小高い丘(おか)が続いている場合、それを遮って止めるために設けられた空堀(からぼり)のことです。等高線に直角になるように掘られました。山城の場合、曲輪同士(どうし)の区切りや、城の境(さかい)をはっきりさせるために掘られることが多く見られます。

※高石垣(たかいしがき)
高さが5mを超(こ)える石垣のことを言います。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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