理文先生のお城がっこう 歴史編 第41回 織田信長の居城(小牧山城1)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回のテーマは、織田信長が清洲城の次に拠点を移した小牧山城について。清洲よりも生活に不便な小牧山に信長があえて移転した目的は? そして、当時の小牧山城はどんな姿だったのでしょう?

家督(かとく)を継いだ織田信長(おだのぶなが)は、織田一族の間での勢力(せいりょく)争いを勝ち抜(ぬ)き、永禄(えいろく)2年(1559)までに尾張(おわり)一国を一つにまとめて支配(しはい)することに成功しました。尾張を統一(とういつ)した信長は、何の前触(ぶ)れもなく都(みやこ)へ向かいました。信長に付き従(したが)ったのは80人程(ほど)で、京都・奈良・堺(さかい)を見物して、将軍(しょうぐん)足利義輝(あしかがよしてる)に謁見(えっけん)し、数日間都に滞在(たいざい)して、帰り道は、現在(げんざい)の滋賀県東近江(おうみ)市から鈴鹿(すずか)山脈(さんみゃく)の八風峠(はっぷうとうげ)を越(こ)えて、三重県桑名(くわな)市へ抜ける八風街道を利用したと『信長公記(しんちょうこうき)』に記録されています。この都へ行った上洛(じょうらく)こそが、その後の信長の城造(づく)りに大きな影響(えいきょう)を与(あた)えた出来事だったと思われます。

永禄3年には、駿河(するが)・遠江(とおとうみ)・三河(みかわ)の三カ国を支配した駿河・遠江両国の守護(しゅご)である今川義元(いまがわよしもと)が、2万余(あま)りの軍勢(ぐんぜい)を率(ひき)いて、尾張へと攻(せ)め込(こ)んで来ましたが、これを桶狭間(おけはざま)に奇襲(きしゅう)し、打ち破(やぶ)ったのです。桶狭間の戦いの結果は、すぐに全国に広がり、尾張に「織田信長」有りと知れ渡(わた)りました。

小牧山城
小牧山から清洲方面を望む。濃尾(のうび)平野の中にポツンと存在する小高い小牧山は、名古屋や清洲からも十分見ることが出来ました

小牧山への移転

永禄5年(1562)、三河国の松平元康(まつだいらもとやす)(後の徳川家康)が、遠江・駿河の守護である今川氏との結びつきを断(た)って、信長との間で同一の行動をとることを約束したのです(清洲(きよす)同盟(どうめい)と言います)。信長は、この同盟によって、完全に東から攻撃(こうげき)されることが無くなりました。そこで、いよいよ、いろいろな心配をすることなく美濃(みの)を攻め取ることに専念(せんねん)する準備(じゅんび)が整ったのです。

家康と同盟を結んだ、翌永禄6年、信長は突然、清洲から居城(きょじょう)を移(うつ)すと家臣たちに告(つ)げたのです。しかし、今居城がある清洲の町は、尾張のほぼ中央に位置し、しかも水陸の交通の便も良く、豊かな生活が出来る恵(めぐ)まれた土地でした。どこへ移るにしても、清洲より不便な土地へと引っ越すことになるため、反対の声が多く挙がったようです。

信長は、家来たちが喜(よろこ)び勇んで居城移転(いてん)に賛成(さんせい)するような作戦を考えていました。『信長公記』には、「奇特(きとく)なる御巧(おんたくみ)これあり(目的が達せられるように前もって考えておく特別な手段(しゅだん)によって)」と記されています。

信長はまず、清洲の北東約18㎞も離れた、美濃国境(くにざかい)近くの二宮山(現在の本宮山(ほんぐうさん))(犬山市本宮山)という標高約292mの高山へ、城を移すと家来に告げたのです。当然、家来たちは大いに迷惑(めいわく)がって、陰(かげ)に隠(かく)れて不平たらたらだったと言うことです。そこで、清洲の北東約11㎞と近く、五条川(ごじょうがわ)を使う河川(かせん)交通で接続している小牧山(標高約85m)に変更(へんこう)したと告げたのです。二宮山に比(くら)べたら小牧は川続きで近いと、皆(みな)こぞって喜んで引っ越ししたそうです。当時の人たちも、引っ越しは面倒(めんどう)で嫌(いや)だったのでしょう。出来れば、近くが良いと思うことは、今も変わりませんね。信長の作戦勝ちということでしょうか。

小牧山城
清洲から移転を決めた小牧山。標高約85mと高さもそれほどではなく、清洲の北東約11㎞と近く、五条川を使う河川交通で結ばれていました

小牧山城の姿

小牧へ移転した後、わずか4年で信長は、美濃一国を攻め落とすことに成功しました。わずか4年しか住まなかったため、小牧の城は美濃攻めの糸口とするための、(とりで)のような様子の城だと、後の世の人たちに言われてしまいます。だが、小牧市教育委員会の発掘調査によって、それまでの小牧山城(愛知県小牧市)のイメージがガラッと変わってしまいました。砦のような「土の城」だと思われていた小牧山城が、「石垣(いしがき)の城」だったことが明らかになったのです。従来(じゅうらい)安土城(滋賀県近江八幡市)に始まると言われていた信長の石垣造りの城が、実はそれより10年以上前に築(きず)かれた小牧山城ですでに使用されていたのです。小牧山城こそ、信長の石垣造りの城のルーツだったのです。

小牧歴史館
小牧山山頂(さんちょう)にある小牧歴史(れきし)館。歴史館の周囲(しゅうい)には古くから巨大(きょだい)な石材が残り、信長時代の石垣跡(あと)と考えられてきました。発掘調査で、石垣に取り囲まれていたことがわかりました

小牧山城は、美濃を攻め落とすための砦ではなく、当時最先端(さいせんたん)の技術(ぎじゅつ)を導入(どうにゅう)した本格的(ほんかくてき)な城であったことがはっきりとしました。では、なぜ信長は清洲から城を移したのでしょうか。発掘調査はっくつちょうさ)成果から見えてきたことがあります。

信長は、清州から城を移しただけでなく、城下町も丸ごと移転させたのです。新しい城と新しい街を、ゼロから造り上げていました。城下町は、 碁盤(ごばん)の目のように同じ間隔で縦横(たてよこ)に平行線を引いて区分した配置だけにとどまらず、当時誰(だれ)も考えもしなかった上水道と下水道という生活に欠かせないライフラインを完備(かんび)した街だったことが発掘調査から判明したのです。城だけでなく、城下町も当時最新の技術によって築かれていたことになります。信長は、尾張を統一した時点から、手抜かりのない入念な準備をして、清洲の持つ首都機能(きのう)を丸ごと小牧に持ってきてしまったのです。

(たし)かに、美濃を攻略(こうりゃく)するための拠点とすることも大きな理由の一つでした。だが、最大のねらいは清洲の町に根を張(は)る、中世以来持ち続けた寺社や一部の商人の特権(とっけん)的な権利などから抜け出すことだったのです。小牧移転の時点で、すでに信長は、信長を中心にした新たな決まりや物事の順番を築き上げようとしていたのです。

お城がっこう,加藤理文
➂小牧神明社 ④堀(ほり)の内公園 ➄惣堀 ⑥神明社
現在の町に重ね合わせた信長の城下町の範囲(はんい)(緑色の線に囲(かこ)まれた)信長は、ゼロから城下町を造り上げたのです(小牧市教育委員会提供)

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※居城(きょじょう)
領主(りょうしゅ)が日常(にちじょう)住んでいる城のことです。または、領主が、拠点(きょてん)(本拠)とするために築いた城のことです。本城(ほんじょう)と呼(よ)ばれることもあります。

砦(とりで)
取り出して築く城の意味です。居城(本城)の外の、要所に築く小規模(きぼ)な構(かま)えの城を指します。出城(でじろ)も同じ意味になります。

城下町(じょうかまち)
平山城や平城が多く築かれるようになると、城の周囲に家臣たちの住居である侍屋敷(さむらいやしき)や、商人や職人(しょくにん)が住む町人地および社寺が置かれました。お城を中心に設(もう)けられた都市のことです。現在の大都市の大部分が城下町から発展(はってん)した都市になります。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。


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