理文先生のお城がっこう 歴史編 第34回 四国の城3(河野氏と湯築(ゆづき)城)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。34回目の今回は、前々回から引き続き「四国の城」の第3回。伊予国(現在の愛媛県)第一の大族だった河野氏の拠点・湯築城の特徴を、中世の歴史までさかのぼりながら見ていきましょう。

河野(こうの)は、風早郡(かざはやぐん)河野郷(こうのごう)土居(どい)(現在(げんざい)の愛媛県松山市北条付近)を本拠としていた一族で、鎌倉(かまくら)時代後期から南北朝時代に活躍した河野(みちもり)が、湯築(ゆづき)へと本拠(ほんきょ)を移(うつ)し、湯築城を築いたと言われています。

湯築城は天文(てんぶん)4年(1535)、河野通直(みちなお)(弾正少弼(だんじょうしょうひつ))が二重の(ほり)土塁(どるい)を巡(めぐ)らして現在の形を完成させました。同9年に通直は、室町幕府(ばくふ)御相伴衆(ごしょうばんしゅう)(将(しょうぐん)と一緒(いっしょ)に宴席(えんせき)や他家訪問(ほうもん)に付き従(したが)う役職(やくしょく)のことですに加えられました。永禄(えいろく)11年(1568)に城主となった通直(伊予守(いよのかみ))は、天正(てんしょう)13年(1585)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)による四国攻(ぜ)めが始まると、湯築城に籠城(ろうじょう)しましたが、小早川隆景(こばやかわたかかげ)の勧(すす)めもあって約1カ月後、降伏(こうふく)しています。湯築城は、創築(そうちく)から開城まで、約250年間、河野氏代々の居城(きょじょう)だったのです。

湯築城
松山城天守より見た湯築城方面

河野氏の盛衰

河野氏は、風早郡河野郷を本拠地とした一族でした。治承(じしょう)4年(1180)、河野通信(みちのぶ)は、源頼朝(みなもとのよりとも)挙兵(きょへい)(兵を集めて戦(いくさ)を起こすことです)に応(こた)えて、翌年父・通清(みちきよ)と共に平維盛(たいらのこれもり)目代(もくだい)(代わりに任国(にんこく)に赴(おもむ)いて地方を治めた私的(してき)な代官のことです)を追放しました。しかし、平氏方の反攻(はんこう)により、通清がその居城・高縄山(たかなわさん)城(愛媛県松山市)で討(う)ち死に、通信はゲリラ戦を展開(てんかい)し抵抗(ていこう)を続けました。文治(ぶんじ)元年(1185)、志度(しど)合戦で源義経(よしつね)に軍船を献上(けんじょう)(差し上げることです)し、壇ノ浦(だんのうら)の戦いでも活躍(かつやく)しました。戦後は、鎌倉幕府御家人(ごけにん)(鎌倉幕府に仕えた武士のことです)として、伊予国内の一部の御家人を統括(とうかつ)する権限(けんげん)を認(みと)められています。

嫡男(ちゃくなん)・通政(みちまさ)は、院庁(いんのちょう)(上皇(じょうこう)が政(せいじ)を行う場所です)に仕えたため、承久(じょうきゅう)3年(1221)の承久の乱では、後鳥羽(ごとば)上皇方についたため、通政は斬(き)られ、通信は流罪(るざい)となり、所領(しょりょう)の多くは没収(ぼっしゅう)されました。唯一(ゆいいつ)、母方(北条氏(ほうじょうし))の縁(えん)から幕府方となった通政の弟・通久(みちひさ)が河野家当主となります。

通久の孫・通有(みちあり)六波羅探題(ろくはらたんだい)(鎌倉幕府の役所で、京都の警護(けいご)、朝廷(ちょうてい)の監視(かんし)および西国(さいごく)御家人の統制(とうせい)をおこないました)の命を受け、国内の水軍を束ねて伊予国の海上警備(けいび)の任に当たっていました。(げん)(中国に築いたモンゴル人の王朝です)軍が攻め寄せた、文永(ぶんえい)11年(1274)の文永の役の後、再度(さいど)の襲来(しゅうらい)に備(そな)えて北九州に出陣(しゅつじん)し、弘安(こうあん)4年(1281)の弘安の役(えき)では、石築地(いしついじ)(元寇防塁(げんこうぼうるい))の海側の砂浜(すなまはま)に戦船を置いて、陣を張り、石築地を陣の背後(はいご)としました。この陣立ては「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ、九州諸将(しょしょう)も一目置いたと伝わります。通有は志賀島(しかのしま)の戦いにおいて先に惣領(そうりょう)(家を継(つ)ぐ人のことです)の地位を争っていた伯父(おじ)の通時(みちとき)とともに元軍船を攻撃(こうげき)しました。この戦いで通時は戦死し、通有本人も(ど)(石弓(いしゆみ)と呼ばれる、現在のボウガンのような武器(ぶき)です)により負傷(ふしょう)したものの、元船に乗り込(こ)み散々に元兵を斬って、元軍の将を生け捕(ど)る武勲(ぶくん)を挙げたのです。

戦後、その恩賞(おんしょう)(褒美(ほうび)として土地や現金(げんきん)を与(あた)えることです)として肥前国(ひぜんのくに)神崎荘(かんざきのしょう)小崎郷(おさきごう)(現在の佐賀県神埼市)や伊予国山崎荘(現在の伊予市)を得(え)て、失われていた河野氏の旧領(きゅうりょう)を回復(かいふく)したため、河野氏中興(ちゅうこう)の祖(そ)とも呼ばれています。通有の子・通盛は、元弘(げんこう)元年(1331)、後醍醐(ごだいご)天皇(てんのう)が倒幕(とうばく)の兵を挙げると、上洛(じょうらく)して六波羅探題方(幕府側)として戦ったため、出家(しゅっけ)(仏門(ぶつもん)に入り修行(しゅぎょう)をすることです)し一時勢力を失います。その後、朝廷側と対立し九州から東上してきた足利尊氏(あしかがたかうじ)軍に合流して勢力を回復しました。尊氏から、元の領地である伊予の地を安堵(あんど)され、道後(どうご)に湯築城を築き、松山平野に進出しました。以後、北朝方として活躍し、幕府から伊予守護(しゅご)に任じられ、河野氏発展(はってん)の基礎(きそ)を築いたのです。

天文4年(1535)河野通直(弾正少弼)が、湯築城に二重の堀と土塁を巡らして現在の形を完成させたと言われます。自身に嗣子(しし)(家を継ぐべき子供のことです)がなく、娘婿(むすめむこ)(娘の夫のことです)の村上通康(みちやす)を後継者(こうけいしゃ)に迎(むか)えようとしましたが、家臣団(だん)の反発と後継ぎを誰(だれ)にするかで争ったため、通康とともに湯築城から来島(くるしま)(愛媛県今治市)へと退去(たいきょ)しました。河野氏は、その後徐々に力を弱めてしまいます。

永禄11年(1568)後継となった直道(伊予守)の代には、すっかり求心力は低下し、毛利氏から援軍(えんぐん)を得て、何とか自立を保(たも)っていました。天正13年(1585)豊臣秀吉の四国攻めが開始されると、家中でどう対応(たいおう)していいかがまとまらず、湯築城に籠城してしまいます。しかし、以前から通直政権(せいけん)に協力していた小早川隆景からの勧めで、約1カ月後、小早川勢に降伏します。通直は命こそ助けられましたが、所領は没収され、ここに伊予河野氏は滅亡(めつぼう)しました。居城の湯築城は、その後福島正則(ふくしままさのり)が城主となりましたが、正則が国分山(こくぶやま)城(愛媛県今治市)に居城を移したのを受けて廃城(はいじょう)となったのです。鎌倉時代に時宗(じしゅう)を興(おこ)した一遍(いっぺん)上人は、河野通信の孫にあたります。

湯築城、推定復元イラスト
湯築城の推定復元イラスト(イラスト:香川元太郎 『湯築城物語』より)

湯築城の構造

湯築城は、道後温泉にほど近い丘陵(きゅうりょう)の最高所(標高71.4m)を利用した平山城(ひらやまじろ)で、当初は山頂(さんちょう)部に城があったようです。現在の城跡(あと)は、南北約350m×東西約300mの規模(きぼ)で、中央部が比高(ひこう)30m程(ほど)の丘陵部で、その周りを二重の土塁と堀が取り囲(かこ)んでいます。16世紀前半には周囲(しゅうい)に外堀を築き、二重の堀と二重の土塁を巡らせた城になったと推定されます。江戸時代に描かれた絵図から、東側が大手(おおて)(表側)、西側が搦手(からめて)(裏(うら)側)と考えられています。外堀は、幅約5mで、堀を掘った土を内側に盛(も)り上げて、基底(きてい)部の幅(はば)約20m、高さ約5mの土塁が築かれています。外堀と土塁の内側、特に丘陵部西~南側と東側に広い空間が置かれました。外堀は、方形を呈(てい)すように築かれてはいますが、緩(ゆる)やかにカーブを描くため、多角形とか亀甲(きっこう)型と言われます。最大の特徴(とくちょう)は、鬼門(きもん)(鬼(おに)が出入りすると言われる北東のことです)となる北東隅(すみ)部分がL字に切り欠かれていることです。鬼門除(きもんよ)(鬼が入ってくることを防(ふせ)ぐための方策(ほうさく)です)の目的と推定(すいてい)されます。

湯築城、外堀、内堀
現在残された外堀(左)と内堀(右)。外堀は、市街地化により幅を狭(せま)くしていますが、北側を除(のぞ)きほぼ現存しています。内堀は、東側がはっきりしません

外堀と土塁が築かれた内側の南半分(現在、復元(ふくげん)されている区域です)は、発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)により大きく2つの空間に分かれていたことが解りました。西半分は、家臣団の居住区として利用されていました。家臣団居住区は、外堀側土塁内側に設(もう)けられた道路の内側に土塀(どべい)を設け、屋敷(やしき)地の区画は道路と直行するように土塀や溝(みぞ)を配置し、区切られていたのです。この小さな区画の中には、礎石建物(そせきたてもの)が1棟(とう)ずつ建ち並(なら)び、屋敷内へ出入りするための門が道路側に設けられていました。

湯築城、土塀、屋敷地
土塁内側の道路と屋敷地を区切る土塀(左)と復元された家臣団の屋敷地。内部を歩くと当時の様子が解ります

東半分は、庭園と上級武士(ぶし)団の居住区になっていました。広大な敷地に、長さ約13m、幅約8m、深さ85㎝の楕円形(だえんけい)をした池を持つ庭園を構(かま)え、そこに数棟の建物があったようです。儀式(ぎしき)(神事(しんじ)やお祭りのことです)や宴会(えんかい)に使用する土師質(はじしつ)土器(「かわらけ」などの素(す)焼きの使い捨ての土器のことです)が多く捨てられたゴミ穴(あな)や井戸も見つかっており、ここに対面的な施設(しせつ)があったと思われますが、後世の破壊(はかい)(動物園施設の建設(けんせつ))によって、はっきりしたことが解りませんでした。

東側では上級武士団の居住施設と考えられる礎石建物が、軒(のき)を接(せっ)するように建っていました。建物自体は、家臣団居住区と比較(ひかく)して、特に大きい物ではありません。16世紀の中頃(ごろ)に、大規模な火災(かさい)により、ほとんどの建物が焼失しました。しかし、火災後に再(ふたた)び整備(せいび)され、部分的な改修(かいしゅう)を経(へ)て、廃城まで建物は維持(いじ)されたのです。

湯築城、居住区、庭園
上級武士団の居住区(左)と斜面を利用した庭園の借景(右)。上級武士団の居住区は、建物跡が平面表示されています。庭園の借景(しゃっけい)は、内堀越しの巨岩(きょがん)の間に松が植えられています

整備と現在の状況

道後公園内南側の動物園のあった区域(くいき)で、昭和62年(1987)動物園が閉園(へいえん)した後、埋蔵(まいぞう)文化財(ぶんかざい)発掘調査を実施(じっし)したところ、湯築城当時の遺構(いこう)や遺物がたくさん確認されました。発掘調査は、公園の南部を中心に約2万㎡について実施されています。発掘調査によって、中世当時の湯築城の武家(ぶけ)屋敷跡や土塀跡、道、排水溝(はいすいこう)などの遺構や、陶磁器(とうじき)などの遺物が数多く出土しました。このため、武家屋敷や土塀の復元などを内容とする文化財を生かした公園として平成10年(1998)度~13年度にかけて整備を行い、平成14年(2002)4月、リニューアルオープンしました。

湯築城
現在の湯築城跡の様子。南側半分の復元区域が見学可能です。その他の部分は、道後公園になります。資料館に、さまざまな史料や展示がされています。見学前に資料館へ行きましょう(画像提供:湯築城資料館)

城郭の堀や土塁などの縄張(なわば)り遺構が良好に残り、城郭発達史(し)からみても貴重(きちょう)で稀(まれ)な中世の城跡であること、また中世の主要な守護大名の拠点(きょてん)城郭であることに加え、時代や地域を代表する特色を持つことから地域の伝統技法(でんとうぎほう)や工法を使った復元などが評価(ひょうか)され、平成14年に国史跡(しせき)となり、その後日本100名城、日本の歴史(れきし)公園100選にも選定されました。

湯築城
復元区域の様子。家臣団屋敷の背後に資料館、右側に上級武士団の居住区があります(画像提供:湯築城資料館)

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※堀(ほり)
城を守るために、土を掘(ほ)って外から入れないようにする施設です。水をためた水堀(みずぼり)と水がない空堀(からぼり)とに分けられます。水のある堀を「濠」として区別することもあります。

※土塁(どるい)
土を盛って造(つく)った土手のことで、土居(どい)とも言います。多くは、堀を掘った残土を盛って造られました。

大手(おおて)
城の正面、表側にあたる入口のことです。「追手」も同じ意味です。

搦手(からめて)
城の背面、裏口のことです。通常(つうじょう)は目立たないようにしてあります。

※土塀(どべい)
骨組(ほねぐ)みのあるものと、ないものとがありますが、どちらも小さな屋根を葺(ふ)き、用途(ようと)に応じて狭間(さま)が切られました。骨組みのある土塀は、木材で骨組みを造って土壁の要領で小舞(こまい)(竹の格子(こうし))を編(あ)んでその上に壁土(かべつち)を塗(ぬ)って仕上げています。こうした土塀は控(ひか)え柱や控え塀を伴(ともな)うことが多く、独立(どくりつ)していませんでした。骨組みのない土塀は、壁土の中に使用済(ず)みの瓦(かわら)や小石、砂利(じゃり)などを入れて固めたものが主流です。「練塀(ねりべい)」や「太鼓塀(たいこべい)」とも呼ばれました。

※礎石建物(そせきたてもの)
建造(けんぞう)の柱を支(ささ)える土台(基礎(きそ))として、石を用いた建物のことです。柱が直接(ちょくせつ)地面と接していると湿気(しっけ)や食害などで腐食(ふしょく)や老朽化(ろうきゅうか)が早く進むため、それを防ぐために石の上に柱を置きました。初めは寺院建築に用いられ、城に利用されるようになったのは戦国時代の後期になってからのことです。

次回は「九州の城1」です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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