理文先生のお城がっこう 歴史編 第14回 足利将軍家の館「花の御所」

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回は、足利将軍家の邸宅について解説します。「花の御所」「室町御所」とも呼ばれた邸宅はどんな場所だったのでしょう。



■理文先生のお城がっこう
前回「第13回 南北朝時代の山城 2」はこちら

室町幕府(むろまちばくふ)の3代将軍(しょうぐん)になった足利義満(あしかがよしみつ)は永和(えいわ)4年(1378)に、足利家のために構えが大きくて、りっぱな造(つく)りの屋敷(やしき)を造りはじめました。屋敷は、京都の北小路室町(きたこうじむろまち)の崇光上皇(すこうじょうこう)御所(位の高い人の住まい)跡と左大臣であった今出川公直(いまでがわきんなお)の住まいである菊亭(きくてい)が焼けた跡(あとち)をあわせた場所になります。その敷地(しきち)の広さは、東西1町×南北2町(1町は約109m)もありました。足利将軍家の邸宅は、花の御所(はなのごしょ)、室町第(むろまちてい)、室町殿( むろまちどの)、室町御所とも呼ばれました。

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『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)』上杉本( 左隻 )(米沢市上杉博物館蔵)

花の御所の完成

菊亭部分に造っていた屋敷の施設が完成すると、すぐにそれまで住んでいた三条坊門第(さんじょうぼうもんだい)から移り住みました。後になるとこの新しい住まいを「上御所(かみごしょ)」、もともとの三条坊門第の住まいを「下御所(しもごしょ)」と呼ぶようになります。工事は、その後も続けられ、翌永和5年には寝殿(しんでん)(主人の居所として中央部に設けられた施設で、神事や催事などの特別なことが行われる場所)が作られ、2年をかけて完成しました。

北小路通は、土御門内裏(つちのみかどだいり)に近く、敷地の広さだけでも天皇の住まいである御所の2倍以上の規模がありました。そのため、義満が天皇や公家(くげ)たちに、自分の力や財(ざい)力を示すために造ったとも考えられています。屋敷の中に造られた庭には、鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上(けんじょう)(身分の高い人に物を差し上げること)された四季折々の花木を植えたと伝わり「花の御所」と呼ばれるようになりました。義満は、ここに後円融(ごえんゆう)天皇や関白(かんぱく)の二条師嗣(にじょうもろつぐ)などを招(まね)いて、詩歌(しいか)(漢詩や和歌をよむこと)蹴鞠(けまり)(鹿皮製の鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技)の会などを開催(かいさい)しました。

内裏のすぐ北側に幕府が移ったため、政治の中心も上京に移ることになり、公家だけではなく武家も集まるようになりました。そのため、管領(かんれい)(将軍を補佐する職)であった細川氏などを中心に、幕府務めの武家の居住する町になり、周辺には門跡寺院(もんせきじいん)(天皇の一族や公家が住職(じゅうしょく)を務める特定の寺)や武家の菩提寺(ぼだいじ)(先祖からずっとその寺の信仰を信じ、先祖の位牌(いはい)を納めている寺)などが建てられ、政治を行う人たちの住む場所になったのです。

北山第に隠居(いんきょ)した義満でしたが、応永13年(1406)に館を修理します。さらに、永享元年(1429)、6代将軍義教(よしのり)が、花の御所会所(主に私的な遊興的な行事に使われた建物)と御会所泉殿(いずみどの)(庭の一角の池に面して造られた建物)を増築(ぞうちく)します。また、青蓮院(しょうれいいん)にあった庭石を花の御所に運ばせてもいます。

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『洛中洛外図屏風』上杉本( 左隻)( 米沢市上杉博物館蔵 )に見る細川邸
将軍に次ぐ役職、管領を代々就任した細川宗家の邸宅です。現在の上立売通の北で小川の東にあたります。この時の居主は細川晴元または細川氏綱のどちらかと考えられています

記録に残る「花の御所」

その規模は「室町殿は東西行き四十丈(約120m)、南北行き六十丈(約180m)の御地なり(1丈は、約3m)」と『大乗院寺社雑事記』(だいじょういんじしゃぞうじき)(興福寺大乗院で室町時代に門跡を務めた、尋尊(じんそん)・政覚(せいがく)・経尋(きょうじん)が三代に渡って記した日記)に記録されています。内部には、会所(かいしょ)観音殿(かんのんでん)(2階建て以上の四方を見わたせる高層建物)持仏堂(じぶつどう)(日常的に礼拝する仏像や位牌を安置するお堂)(ちん)(眺望や休憩のために高台や庭園に設けた小さな建物)寝殿(しんでん)などがあったと『蔭涼軒日録』(いんりょうけんにちろく)(京都相国寺鹿苑院 (ろくおんいん) 内の蔭涼軒主の日記)は伝えます。

また、永享九年(1437)の花園天皇の行幸(ぎょうこう、みゆき)(天皇が外出すること)記から、四足門(よつあしもん、しきゃくもん)(門柱の前後に控柱を2本ずつ、左右合わせて4本立てた門)・中門・寝殿(しんでん)台盤所(だいばんどころ)(食物を調理する台所)御湯殿(おゆどの)(飲用に用いる湯を沸したり,お供え用の御膳をととのえたりするところ)常御所(つねのごしょ)(主人のための居住空間)夜御殿(よるのおとど)(寝室)などがあったこともわかります。四足門は室町通に面していました。

応仁・文明の乱(1467~77)の最中の、文明8年(1476)に、花の御所周辺の土倉(どそう)・酒屋(さかや)(現在の質屋のように物品を預かって、その物品に相当する金額の金銭を高利で貸した金融業者)が放火され、室町御所にも燃え移り全焼してしまいます。同11年には、管領を惣奉行(そうぶぎょう)として、諸国から上納金(じょうのうきん)(幕府へ納める金)を集めて再建費用を捻出(ねんしゅつ)し、寝殿を造りますが、翌年(よくとし)再び近くの火災が燃え移ったため、同13年に周囲に築地塀を造ったとされますが、どこまで復興(ふっこう)されたのかははっきりしません。

長享2年(1488)には、花の御所の焼け跡が夜盗(やとう)(夜に物やお金を盗む人たち)の集会場所となっていることが問題となり、庶民(しょみん)が生活する場所にしたらどうかと話し合いがもたれました。数年後、この付近一帯に庶民の家が立ち並(なら)ぶようになったと考えられています。

描かれた室町殿と発掘された室町殿

天正2年(1574)、織田信長が上杉謙信に贈(おく)った「上杉本洛中洛外図屛風」には、室町殿(花の御所)が描かれています。この室町殿は、義満のものではなく、12代義晴(よしはる)もしくは13代義輝(よしてる)が再建した新しい室町殿だと考えられています。屛風では、建物群は檜皮(ひわだぶき)(ヒノキの皮を使って葺かれた屋根)の大屋根を持つ入母屋造(いりもやづくり)(上部は切妻(きりづま)造のように二方向へ勾配(こうばい)をもち、下方は寄せ棟造のように四方向へ勾配をもつ屋根)の建物群が中心で、そこに切妻屋根(きりづまやね)(本を伏せたような山形の形をした屋根)の建物が付属するように建てられています。重要な建物は目隠塀(めかくしべい)(周囲から見えないように設けられた塀)で仕切られ、内部に広く大きな庭園も見られます。館を取り囲むように土塀(どべい)が取り巻き、大事な場所には門が配され、警備(けいび)の武士が常に配備(はいび)されていました。

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『洛中洛外図屏風』上杉本( 左隻)( 米沢市上杉博物館蔵) に見る「花の御所」。築地塀に囲まれた屋敷で、室町通に面して四足門が設けられています。目隠塀で区画された寝殿 を中心に、常御所などの建物が軒を連ねていました。 各地の守護は、この建物を参考にして地方 に同様の屋敷を築くことになります

「上杉本洛中洛外図屛風」に描かれている北東角の鬼門(きもん)(鬼が出るとして嫌われた方角)を守るための(ほこら)(神や先祖を祭る小規模な殿舎)の基礎(きそ)と思われる遺構(いこう)が、平成14年(2002)、同志社(どうししゃ)大学会館敷地(しきち)内の寒梅館の建設に伴う発掘調査(はっくつちょうさ)(上京区上立売通烏丸角)で見つかりました。また、花の御所の石敷(し)きと見られる遺構も確認され、現地に保存されました。大学の南側にある大聖寺(だいしょうじ)境内(けいだい)には「花の御所」、今出川室町交差点(北東側)には、「従是東北 足利将軍室町第址」と書かれた石碑(せきひ)が建っています。

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大聖寺境内の「花の御所」、今出川室町交差点(北東側)の石碑

室町将軍の山城

室町幕府は、都に御所を構えましたが、もし敵方に攻められるようなことになった場合に備えて、戦うための城を築いています。それが、慈照寺(じしょうじ)の裏山に位置する山城の中尾城(なかおじょう)です。この城を築いたのは、12代将軍の足利義晴(よしはる)で、天文18年(1549)のことでした。『万松院殿穴太記(ばんしょういんどのあのうき)(足利義晴が天文18年に近江に逃亡し、翌19年に近江(おうみ)で没する最晩年とその葬儀(そうぎ)の様子を記録したもの)には、「少人数で大きな敵を防ぐには、平坦(へいたん)な地では難しいので、地形が険しく守りやすい城をつくった」と、都に山城(やまじろ)を築き上げたことが記録されています。

さらに「尾根の先端に三重の空堀(からぼり)を構えて、二重の壁(土塀か)を造って、その間に石を入れたりしたのは、鉄砲で撃たれた時の用心だ」と守りを固めた様子も書かれています。翌年、病死した義晴に代わって将軍になった足利義輝も細川晴元(ほそかわはるもと)とともに城に入りましたが、三好長慶(みよしながよし)に攻められたため、城に火をつけて使えないようにして、坂本、堅田(かたた)へと逃げてしまいます。城は、三好軍によって壊されてしまいました。


今日ならったお城(しろ)の用語


門跡寺院(もんせきじいん)
天皇の一族や公家(貴族)が住職(お寺を管理し治める代表者)を務める特定の寺のことです。

菩提寺(ぼだいじ)
先祖からずっとその寺の信仰を信じ、先祖の位牌(死者の霊を祭るため板)を納めている寺のことです。

寝殿(しんでん)
屋敷の中で、最も中心になる建物のことです。また、主人が日常寝起きする建物も寝殿と言われます。公家社会では、ここで儀式・行事が行われたため重要視されました。

会所(かいしょ)
主に、私的にお酒を飲んだり遊んだりするために使われた建物のことです。多くは、和歌を詠み合う歌会・茶の味を飲み分けて勝敗を競う遊びである闘茶・月を眺めてお酒を飲んだりして楽しむ月見などのための会合に用いられました。

泉殿(いずみどの)
先祖からずっとその寺の信仰を信じ、先祖の位牌(死者の霊を祭るため板)を納めている寺のことです。

観音殿(かんのんでん)
二階建て以上の四方を見渡すことができる高層建物のことです。慈照寺(じしょうじ)「銀閣」などがこれにあたります。

持仏堂(じぶつどう)
ふだん拝(おが)む仏像や先祖の位牌(いはい)を据(す)え置いて祭るためのお堂のことです。

(ちん)
「てい」とも読みます。遠くを眺めたり、休憩したりするために高台や庭の近くに建てられた小さな建物のことですが、2階建て以上の建物が多く見られます。

四足門(よつあしもん・しきゃくもん)
門扉(もんぴ)を支える2本の本柱の前後に控柱を2本ずつ、左右合わせて4本立てた門のことです。

台盤所(だいばんどころ)
食べ物を持った盤(皿)を載せる木製の机のような台がある場所のことで、簡単に言うなら食事の支度する台所のことになります。

御湯殿(おゆどの)
飲み水として使用するための湯を沸かしたり、神様や先祖などにお供えするための食べ物を整えたりする所のことを言います。

常御所(つねのごしょ)
主人が日常的に使用する建物のことです。

夜御殿(よるのおとど)
主人が夜になって寝る所のことです。寝所のことです。

※檜皮葺(ひわだぶき)
日本古来の伝統的な屋根葺手法の一つで、檜の樹皮をずらして重ねて葺き、竹釘(たけくぎ)で檜皮(ひわだ)を固定する葺(ふ)き方。城の御殿は、ほとんどがこの屋根でした。

入母屋造(いりもやづくり)
寄棟造(よせむねづくり)(屋根面が交差する部分の両端から四隅に降り棟が下りるような構造)の屋根の上に切妻造(きりづまづくり)を載せた形で,切妻造の四方に庇(ひさし)がついてできた屋根のことです。

切妻屋根(きりづまやね)
本を開いて伏(ふ)せたような形の屋根です。屋根を棟から両側へふきおろし,その両端を棟と直角に切ったものです。

目隠塀(めかくしべい)
周囲から見えないように設けられた塀のことです。

土塀(どべい)
粘土質(ねんどしつ)の土や泥(どろ)に、石灰(せっかい)とフノリに加えて混ぜ合わせて作られた伝統的な塀のことです。

※は再掲




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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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