理文先生のお城がっこう 歴史編 第19回 村・寺と民衆を守る城

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。19回目の今回は、寺と民衆(みんしゅう)を守る「村の城」についてどんな役割があったのか? 理文先生が解説します。



■理文先生のお城がっこう
前回「第18回 巨大化した戦国山城」はこちら

村に存在した城

応仁(おうにん)元年(1467)に京都を中心に起こった応仁の乱(らん)は、やがて全国的な規模(きぼ)の戦乱(せんらん)となって広がっていくことになります。こうした乱(みだ)れた世の中にあって、一般(いっぱん)の人々は自分たちの身(み)を、自分たちで守らなければなりませんでした。そこで、村人たちが武士(ぶし)たち同士(どうし)の争(あらそ)いに巻(ま)き込まれて被害(ひがい)にあわないようにするため、いざとなった時に避難(ひなん)する場所として「村に城」を造ってそこに逃(に)げ込(こ)んだといわれています。また、村そのものを城(しろ)や砦(とりで)のように、堀(ほり)や土塁(どるい)を設けて守ることもあったともいいます。

しかし、一般の人々が自分の身を守るために集まって城を造ったりするのでしょうか。村人を含む一般の人々が、争(あらそ)いに巻き込まれないようにするために、最(もっと)も手っ取り早い方法(ほうほう)は、争っている場所から逃げることです。どこへ逃げたかというと、それは被害の及(およ)ばない一番の場所「山へ(こも)(避難する)」ことでしょう。武士たちは、関係(かんけい)のない農民層(のうみんそう)をむやみみたらに殺(ころ)すことはありません。殺してしまえば、年貢(ねんぐ)などが取れなくなるからです。

虚空蔵山城
虚空蔵山(こくうぞうざん)城(長野県松本市・筑北村)を望(のぞ)
城の周囲の山々や中腹(ちゅうふく)の小高い丘などを利用して「村の城」が作られたといわれます

村人たちが集まって、自分たちが避難するための城を造っていたら、その地を支配(しはい)している領主層(りょうしゅそう)はどう思うのでしょうか。誰(だれ)が見ても、自分に反抗(はんこう)するためかと思ってしまうはずです。このように村人が城を持つことは、ほとんど考えにくいことなのです。城を造ることは、領主の権力を示(しめ)す証拠(しょうこ)で、一般(いっぱん)の人々には出来ないことだったのです。

いつ戦争(せんそう)が起(お)こるか解(わか)らないような緊張(きんちょう)した世の中では、地方の小さな領主たちは、その権力(けんりょく)を保(たも)っていくために、領地内に住む村人たちに様々(さまざま)な利益(りえき)になるようなことや、特別(とくべつ)な計(はか)らいなどを行っていました。田んぼや畑を耕(たが)やし、作物を育てるための用水の確保(かくほ)や喧嘩(けんか)の仲裁(ちゅうさい)だけでなく、万が一の避難(ひなん)する場所の提供(ていきょう)もその一つだったのです。今でいうなら、市役所(しやくしょ)などが大雨や台風が予想される時に、公民館や学校を開放して、避難場所にするようなものです。戦に備(そな)え、避難する場所として村人たちに城を開放(かいほう)する、こうした行為(こうい)が本来の「村の城」の一つの形として考えられます。

宗教勢力による築城

領主となって地方を治(おさ)めた権力者以外によるただ一つの築城(ちくじょう)が、宗教勢力(しゅうきょうせいりょく)と結びついた門徒(もんと)(信者のことです)によるもので、寺及び門徒宗(もんとしゅう)を守るための施設でした。

木曽三川(木曽川(きそがわ)・長良川(ながらがわ)・揖斐川(いびがわ))が形成するデルタ地帯の砂州(さす)(河川から流れ込む土砂によって構成された土地のことです)に位置(いち)するのが長島願証寺(がんしょうじ)(三重県桑名市)です。

長島は、伊勢桑名(くわな)・尾張熱田(あつた)間の海上交通を押(お)さえる重要(じゅうよう)な場所で、本願寺一族の寺院(じいん)である願証寺が治める土地として、大名(だいみょう)や領主の権力の及ばない事実上の治外法権(ちがいほうけん)大名や領主の法や裁判権に服さない権利のことです)の特権(とっけん)を持つことになったのです。

この他(ほか)、本願寺派門徒による加賀一向一揆(かがいっこういっき)の拠点(きょてん)として築城された鳥越城(とりごえじょう)(石川県白山市)などもありました。いずれも織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)と対立(たいりつ)して、やがて滅亡(めつぼう)する運命(うんめい)が待(ま)っていたのです。

願正寺、鳥越城跡
現在の願正寺(左)と整備された鳥越城跡(右)

戦国期の環濠集落

あちこちで戦闘(せんとう)が起こるようになると、農村(のうそん)自治都市(じちとし)(領主ではなく都市に住む人々の中の有力者たちで政治を運営した都市)では集落(しゅうらく)や都市を守るために周囲に堀(環濠(かんごう))を廻(めぐ)らし、襲撃(しゅうげき)に備(そな)えるところが現(あらわ)れます。戦国時代に最も栄(さか)えた町の一つであった堺(さかい)は、町の北・東・南の三方に濠(ほり)をめぐらせ、守護大名(しゅごだいみょう)や武士(ぶし)の侵入(しんにゅう)から守られた「自由・自治都市」で、町の自治は「会合衆(えごうしゅう)」と呼ばれた有力商人(ゆうりょくしょうにん)が行っていました。

また、これとは別に密集(みっしゅう)して分布(ぶんぷ)する奈良県大和郡山(やまとこおりやま)市の稗田集落(ひえだしゅうらく)若槻集落(わかつきしゅうらく)、番条(ばんじょう)集落などがあります。発掘調査(はっくつちょうさ)実施(じっし)された若槻集落では、現在(げんざい)の環濠自体は18世紀の前半に幅3m以上の大規模な中心となる水路(すいろ)にするために掘り直されていることが解(わか)りました。中世の環濠は、この近世(きんせい)の濠を掘り直したことによって、完全に破壊(はかい)されていたことから、その幅(はば)は3m前後と推定(すいてい)されます。調査で確認された土器(どき)などの出土品(しゅつどひん)の分析(ぶんせき)から、環濠が13世紀後半(こうはん)に造られたことも判明(はんめい)しました。

環濠の規模や確認された施設から、軍事的(ぐんじてき)な防御(ぼうぎょ)をするための集落ではなく、集落周辺に設けられた水田のための灌漑施設(かんがいしせつ)(用水路)として、当初の環濠が成立したと考えられます。文献(ぶんけん)には、「若槻城」との記録(きろく)もあることから、何らかの防御施設があったことも推定はされます。

alt
現在残(のこ)る若槻集落の環濠跡(左)と稗田集落の環濠跡(右:大和郡山市地域振興課提供)

稗田集落は、徳治(とくじ)2年(1307)の大乗院領若槻庄土帳(だいじょういんりょうわかつきのしょうどちょう)(田畠の所在地・面積・地目・作人などを記した、中世の帳簿です)によれば、この時点では環濠はまだ無(な)く、家々はちらばって点在する状態(じょうたい)であったことがわかります。

ところが、文正(ぶんせい)元年(1466)の文正土帳には東端(とうたん)の庄屋屋敷(しょうややしき)と西端(せいたん)の宮地を中心に屋敷が集合し、堀が作られた様子が書かれています。その後、文禄(ぶんろく)4年(1595)の検地帳(けんちちょう)(土地の広さや収穫高や耕作者などを村単位で集計して取りまとめた帳簿のことです)によれば、その2つの堀をつないで、東西200m×南北70mと東西に細長い環濠になっていることが解ります。

現在残る環濠は、260m四方の規模で、南西側に張出(はりだし)が見られます。集落内は住宅が密集し、道はT(ティー)字型に交差(こうさ)したり、袋小路(ふくろこうじ)になっていたりと防御(ぼうぎょ)に適(てき)した構造(こうぞう)となっています。

alt
稗田環濠集落の全景(ぜんけい)。周囲を環濠が取り囲み、内部はいくつかのブロックで区画(くかく)されていました(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス)

こうした環濠集落は、13世紀の中頃から耕地(こうち)を拡大(かくだい)するための灌漑設備(せつび)として作られ、14世紀の戦乱の世には、集落を取り巻(ま)く防御線(ぼうぎょせん)としての役割(やくわり)も持つようになったと考えられます。




お城がっこうのその他の記事はこちら

加藤理文(かとうまさふみ)先生
alt
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

関連書籍・商品など