理文先生のお城がっこう 城歩き編 第5回 山城へ行ってみよう〈初級編〉-山中城を歩こう2-

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。前回に引き続き、山中城を歩きます。今回は西の丸から本丸と、改修の途中だったと言われる岱崎出丸に行きます!



■理文先生のお城がっこう
前回「第4回 山城へ行ってみよう〈初級編〉-山中城を歩こう1-」はこちら

前回は、大手口から西の丸までの、豊臣軍(とよとみぐん)の攻撃(こうげき)に備(そな)えて新たに造(つく)られた曲輪を中心に見てみました。今回は、西の丸から本丸と、改修途中(かいしゅうとちゅう)だったと言われる岱崎出丸(だいさきでまる)を見てみたいと思います。

山中城、復元イラスト
山中城復元(ふくげん)イラスト(監修(かんしゅう):加藤理文 イラスト:香川元太郎、出展:『大きな縄張図で歩く!楽しむ! 完全詳解 山城ガイド』加藤理文・監修(学研プラス刊))

元西櫓から二の丸へ

西の丸から本丸までの間に、元西櫓(もとにしやぐら)と二の丸(北条丸(ほうじょうまる))の二つの曲輪が設(もう)けられていました。

元西櫓は、その名の通り豊臣軍に備えた増設(ぞうせつ)が行われる前の「西櫓」になります。最初に城(しろ)が造られた時の最も西端(せいたん)の曲輪だったのです。従(したが)って西側には、かつて城の西端を守るための巨大(きょだい)な空堀(からぼり)が設けられていました。西の丸が造られたことによって、西の丸と二の丸の間に位置することになったのです。その構造(こうぞう)は、西櫓と同じで東側を除(のぞ)き土塁(どるい)が廻(めぐ)ります。

この曲輪の東西に位置する両曲輪とは木橋によって接続(せつぞく)していました。発掘調査(はっくつちょうさ)で、二の丸に接続した木橋が幅(はば)1.7m・長さ約4.3mの規模(きぼ)であったことが解(わか)っています。現在(げんざい)、この橋が復元されています。橋の下は「畝堀(うねぼり)」が掘(ほ)られ、本丸と北の丸間を通り、本丸北東隅(ほんまるほくとうすみ)で直角に折れ、城の東側の遮断線(しゃだんせん)になっています。二の丸との間は調査(ちょうさ)され堀が復元されていますが、北から東側は往時(おうじ)の状況のまま残されています。400年たった今でも、畝(うね)を確認(かくにん)することができます。

山中城、元西櫓、二の丸、木橋
元西櫓と二の丸間の木橋(右側が元西櫓)

二の丸(北条丸)は、本丸側を除く三方に土塁が廻っています。北側の土塁は、本丸側の端(はし)が櫓台状(やぐらだいじょう)に高まっているため、西側から通路上に高さを増(ま)していました。この曲輪は他の曲輪と大きく変わっています。本来、曲輪というのは平らに造られるものですが、平らではなく南側に向かってかなり傾斜(けいしゃ)しています。これでは、建物等を建てるのはおろか、ここでの戦闘(せんとう)も想像(そうぞう)することが出来ません。元西櫓から、二の丸を通って本丸に向かった敵兵(てきへい)は、この傾斜に大いに戸惑(とまど)ったと思われます。

北西隅には、橋を攻撃するかのように櫓台が構(かま)えられていました。また、櫓台の対岸下に、南へ降(お)りる道が残っており、鍵(かぎ)の手に曲がって箱井戸(はこいど)の脇(わき)へと続いていました。

山中城、本丸、二の丸
本丸より見た二の丸

本丸と北の丸

本丸と南側の二の丸との間には、土塁と空堀が配されていました。空堀は、鉤(かぎ)の手に曲がって、南下の箱井戸へと続いています。土塁を割(わ)って空間を設け、両曲輪は橋によって接続していましたが、本丸側半分が橋台状(きょうだいじょう)の土橋(どばし)、二の丸側は木橋になっています。

敵方が一度に押(お)し寄(よ)せた時は、この木橋を壊(こわ)して渡(わた)れなくしたのです。橋はあるものの、その西端部では両曲輪の土塁が連絡(れんらく)していました。これは、両曲輪が区画されてはいるものの、二つの曲輪を一つの物として防御(ぼうぎょ)しようとしたことを物語っています。

山中城、二の丸、本丸、木橋
二の丸と本丸間の木橋(奥が本丸)

本丸は、城内の北側に位置する曲輪で、1,740㎡の広さを持ち、二段の平場(ひらば)で構成(こうせい)されていますが、下側の平場は、建物が建つほどの広さはありません。その東下には兵糧庫(ひょうろうこ)曲輪が設けられていました。

この三段の曲輪全体が、相互(そうご)に連関し合って本丸を構成していたのでしょう。本丸(最上段)は、東側を除く三方を高さ約5m、底辺幅約15mの大土塁が囲み、北西隅に高さ約8mの方形の櫓(天守櫓(てんしゅやぐら))台が設けられていました。

櫓台には、天守があったわけではなく、城のシンボルとなった櫓が構えられていたようです。櫓台は、発掘調査結果から一辺7.5m、高さ50cmほどの正方形の基壇(きだん)(土の天守台)の上に高櫓(たかやぐら)が建てられていたものと想定されています。

本丸には広間(城主の居住(きょじゅう)する場所)があり、その前庭には200名以上の兵が駐屯(ちゅうとん)(軍隊がとどまっていること)していたと記録されています。最後の攻防戦(こうぼうせん)は、櫓を中心に槍(やり)によって繰(く)り広げられ、勝利した豊臣軍はこの櫓上に馬験(うまじるし)(旗指物の一種で、戦陣(せんじん)において大将(たいしょう)の馬の側に立て、その存在(そんざい)を味方に明示(めいじ)するもの)を挙げ、落城(らくじょう)を敵・味方に知らせたとあります。

最下段の兵糧庫曲輪では、礎石建物(そせきたてもの)や掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)が確認されています。兵糧や武器(ぶき)を収(おさ)めた倉庫の存在(そんざい)が推定(すいてい)されます。それとは別に、直径約1.5m、深さ2.5m程(ほど)の穴(あな)が列をなして4カ所確認(かくにん)されています。用途(ようと)は、よく解っていませんが、籠城戦(ろうじょうせん)に備え、何かを貯蔵(ちょぞう)するためのものなのでしょうか。

本丸の北側に位置する北の丸は、本丸との間を畝堀によって区切られ、本丸側を除き土塁が巡っています。ここにも、やはり木橋が架(か)けられていました。L字を呈(てい)す北の丸は、その位置や機能(きのう)から考えると本丸の「馬出(うまだし)(虎口(こぐち)の外側に、守りを固めるためと、攻撃の拠点(きょてん)とするために設けられた曲輪)」にあたり、本丸防御の前線であったとおもわれます。

堀切を挟(はさ)んだ北側にはラオシバと呼(よ)ばれる平坦地(へいたんち)が残されていますが、曲輪として人工的に造りだされたものではありません。おそらく、ここも曲輪を構えようとしたものの、その前に豊臣軍の侵攻(しんこう)にあい、造成(ぞうせい)に至(いた)らなかったことが考えられます。

山中城、兵糧庫、本丸山中城、北の丸、天守台
天守台よりみた本丸               北の丸より見た天守台

水源から三の丸、岱崎出丸へ

三の丸と二の丸(北条丸)の間に湿地帯(しっちたい)が広がり、北側を箱井戸、南側は田尻ノ池(たじりのいけ)と呼んでいます。箱井戸が飲料水(いんりょうすい)(飲用に適(てき)した水)、田尻ノ池(たじりのいけ)が飼育馬(しいくば)用等の雑用水(ざつようすい)(人の飲用以外の用途の水)と考えられており、湧(わ)き水があるのは箱井戸で、昭和初期まで地元の飲料水として使用されていたようです。

三の丸は、現在曲輪の中央を国道一号線が貫(つらぬ)き、市街地化した部分もありますが、西側には土塁が残されています。三の丸は、かつては空堀によって南北に分かれ、その中央を箱根街道(山中道)が縦断(じゅうだん)していたのです。

最後に、主要部から南に突(つ)き出た尾根筋(おねすじ)の最南端に位置する岱崎出丸へ向かいましょう。この出丸の役割(やくわり)は、大手口へ向かう敵兵を高い場所から攻撃することでした。

箱根街道は、出丸の下を真っ直ぐに伸びていますので、容易(ようい)に狙(ねら)い撃(う)ちが出来ました。もう一つは、主要部へと延びる尾根を豊臣方に占領(せんりょう)されることを防ぐ目的を持っていました。そのために、南西側斜面(なんせいがわしゃめん)に横堀(よこぼり)を廻し、最南端端部(さいなんたんたんぶ)を竪堀(たてぼり)で遮断(しゃだん)してもいます。

発掘調査により、豊臣軍が攻め寄せて来ることを想定した改修(かいしゅう)が中途半端(ちゅうとはんぱ)な状態(じょうたい)で終わっていたことが証明(しょうめい)された曲輪で、豊臣軍の侵攻までにすべての改修が終わっていなかったことが解りました。

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飲料用の箱井戸                 岱崎出丸西下斜面の横堀

これで、山中城をほぼ一周したことになります。全国でも、かなり早い段階で整備公開された中世の城の一つで、戦国時代に多くの領土(りょうど)を切取り領国を拡大した関東の雄(ゆう)・北条氏が、持てる最新の技術(ぎじゅつ)を使いこなして築(きず)いた城です。

土を使って築いた城の最高傑作(さいこうけっさく)の一つとして高い評価(ひょうか)を得ていますが、たった半日で落城したことにより、土の城の限界(げんかい)を多くの武将(ぶしょう)に考えさせるきっかけともなりました。これ以後、城攻めに加わった豊臣武将は、土ではなく石垣の城を造る方向に向かうことになっていくのです。

山中城、ルート
山中城案内図(三島市提供(みしましていきょう)

<コラム> 仲良く並ぶ?山中城主松田康長と豊臣家重臣一柳直末の墓

三の丸跡の東月山普光院宗閑寺(とうげつさんふこういんそうかんじ)(浄土宗(じょうどしゅう))には、山中合戦で壮絶(そうぜつ)な最後を遂(と)げた山中城主松田康長(まつだやすなが)、副将間宮康俊(まみややすとし)と豊臣方の大名一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)などの墓(はか)が、分け隔(へだ)てなく並んでいます。

人は死んで仏(ほとけ)の世界に行ってしまえば、人々は敵も味方無く、この世に未練を残さず仏となることを願うのが当時の考えでした。ここに初めてお寺を造った人は、副将間宮氏の娘(むすめ)お久(ひさ)の方で、家康の四女松姫(まつひめ)の母です。元和6年(1620)戦った双方(そうほう)の武将・兵たちが迷(まよ)うことなく極楽往生(ごくらくおうじょう)(未練を残さず安らかに亡(な)くなること)して成仏(じょうぶつ)(仏さまになること)するために、徳川家康(とくがわいえやす)に必死に頼(たの)み込(こ)んで建てたのです。

山中城、墓、松田康長、間宮康俊
城主松田康長、副将間宮康俊の墓

今日ならったお城(しろ)の用語

空堀(からぼり)
水の無い堀(ほり)のことで、山城(やまじろ)の堀の大部分がこれにあたります。堀底が平らになっている時は、通路として使用されることもありました。

土塁(どるい)
土を盛(も)って造(つく)った土手のことです。土居(どい)とも呼(よ)ばれます。たたきしめて固くしています。

土橋(どばし)
(ほり)を渡(わた)るための通路として、掘り残した土の堤(つつみ)のことです。土で出来ている橋なので、こう呼(よ)びます。

堀切(ほりきり)
尾根(おね)や丘陵(きゅうりょう)が続いている場合、簡単(かんたん)に城内(じょうない)へ入れないようにするために設(もう)けた空堀(からぼり)のことです。等高線に対して、直角に配置されました。山城(やまじろ)では、城や曲輪の区切りにしていました。

横堀(よこぼり)
曲輪の下側などに等高線と平行にめぐるように掘(ほ)られた堀(ほり)のことです。

竪堀(たてぼり)
山の斜面(しゃめん)に、等高線に直角に掘(ほ)られた堀(ほり)で、敵方(てきがた)の斜面移動を防(ふせ)ぐために設(もう)けられました。

馬出(うまだし)
虎口(こぐち)(出入口)の外側に、守りを固めるためや敵兵(てきへい)を襲撃(しゅうげき)する陣地(じんち)とするために置かれた曲輪のことです。

広間(ひろま)
一番大切な御殿(ごてん)の中の中心となる施設(しせつ)のことです。城主(じょうしゅ)が居(い)る場所のことになります。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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