理文先生のお城がっこう 城歩き編 第36回 薬草園を造る

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。36回目は「薬草園」がテーマ。江戸幕府を開いた徳川家康は、薬について自ら研究するほど健康への関心が高かったことでも有名です。そんな家康が開設した薬草園が、どのように全国に広まっていったか見ていきましょう。

「一富士(ふじ)、二鷹(たか)、三茄子(なすび)」徳川家康が好きなものを順番に並(なら)べたと言われています。二の鷹は、鷹狩(が)りのことで、家康の鷹狩り好きは、特に有名です。この鷹狩りは、趣味(しゅみ)であると共に、身体を鍛(きた)え、内臓(ないぞう)の動きを促進(そくしん)させるためであったとも言われます。もう一つ有名な趣味が、薬作りでした。薬研(やげん)(薬材などを碾(ひ)いて粉末(ふんまつ)化したり、磨(す)り潰(つぶ)して汁(しる)を作ったりするための、伝統(でんとう)的な器具のことです)使ってゴリゴリと薬をる姿は、テレビでも良く見られます。

家康は、合戦の合間にも薬の専門書(せんもんしょ)を愛読していたと言われます。『本草綱目(ほんぞうこうもく)(中国で分量がもっとも多く、内容(ないよう)がもっとも充実(じゅうじつ)した薬学書と言われ、作者は明朝の李時珍(りじちん)で、万暦(ばんれき)6年(1578)に完成しています)や『和剤局方(わざいきょくほう)(大観年間(1107~1110年)に政府(せいふ)の命令で、中国で発行された薬の調合と飲み方を指示(しじ)した医学書です)などをしっかりと読み込(こ)んで、自分で薬を調合していたのです。江戸城本丸御殿(ごてん)の家康の自室には、壁(かべ)を埋(う)め尽(つ)くす「薬箪笥(たんす)」があり、その一つひとつに様々な薬がおさめられていたといいます。家康に限らず、この頃(ころ)各地の城の中に見られる「御花畠(おはなばたけ)」は、簡単(かんたん)な薬草園とも考えられています。

春日山城お花畑跡
春日山城お花畑跡。直江屋敷の一段上にあります。薬草や献上用の花を植えていたと言われていますが、定かではありません

駿府御薬園の開設

将軍職(しょうぐんしょくを秀忠に譲(ゆず)った家康は、慶長12年(1607)に駿府(すんぷ)に隠居(いんきょ)するための駿府城を築き、江戸より移(うつ)り住みました。この年、幕府(ばくふ)のお抱(かか)えの朱子学(しゅしがく)派の儒学(じゅがく)者である林羅山(はやしらざん)が『本草綱目』を手に入れ、駿府の家康に献上(けんじょう)しています。これを基(もと)に家康が本格的(ほんかくてき)に薬の研究を進めることになったと言われます。

旗本(はたもと)(将軍直属(ちょくぞく)の家臣のことです)の阿部正信が、天保(てんぽう)14年(1843)に著(あらわ)した『駿国雑志(すんこくざっし)』には、家康は駿河(するが)国内に「御藥園(おんやくえん)」(薬草園)を2箇所(かしょ)もっていたと記されています。一つが、駿府城外堀(そとぼり)付近で、もう一つが久能山下とあります。駿府城外堀付近の「駿府御薬園」は、初瀨山(はつせやま)長谷寺(はせでら)の隣にあり「安東御薬園」と呼(よ)ばれていました。薬園の面積は、約4,373坪(つぼ)で北側には薬園の鎮守(ちんじゅ)が祀(まつ)られていたと言います。薬園は、四方に熊笹(くまざさ)生垣(いけがき)があり大場久四郎がこの土地を守って世話をしていたようです。また、長谷通り側にあった薬園入り口の周辺には熊笹が繁茂(はんも)しており、その前を小川が流れていたとも、薬園の番人小屋と西南の隅(すみ)には、薬園方詰(つ)め所があったとの記録もあり、中途(ちゅうと)で廃絶(はいぜつ)しただけにはっきりしたことが解(わか)らないのです。

それでも、御薬園には114種類の薬草が栽培(さいばい)されていたとされます。中には、今でも使われている薬草も見られます。主な薬草を見てみましょう。

延胡索(えんごさく)…痛み止め、貝母(ばいも)…咳(せき)止め・痰(たん)切り、附子(ぶし)…解熱(げねつ)・毒消し、甘草(かんぞう)…痛み止め、黄芩(おうごん)…胃腸薬(いちょうやく)、呉茱萸(ごしゅゆとう)…頭痛薬、烏藥(うやく)…解熱 などがあります。

家康が亡くなり10年近くの歳月(さいげつ)が流れた寛永(かんえい)年間(1624~43)に、この御薬園は廃絶したと言います。それから100年近くたった享保(きょうほう)11年(1726)、種々の薬草木を栽培し、駿府御武具奉行(ぶぐぶぎょう)が管理したとあります。その後、老中が交代でこの薬園を幕末まで守り、数多くの薬草が栽培され、しばしば幕府の採薬使(さいやくし)(諸国(しょこく)を旅し薬草等を採集(さいしゅう)・研究した者たちです)が訪れ、薬草を取っては幕府に献上していたと言います。

駿府近郊地図
駿府近郊地図(静岡市所蔵)。静岡浅間神社から東に延びる長谷通りの静清信用金庫安東支店がある場所周辺に「駿府御薬園」が広がっていました

尾張藩の御薬園

城の御薬園は、徳川将軍家の保護(ほご)で全国に広まったものと考えられます。初期の薬園は、中国やオランダから医療(いりょう)の一環(いっかん)として流入した、薬草木や珍(めずら)しい植物を受け入れる目的で開設(かいせつ)されました。

最初の将軍直轄(ちょっかつ)の御薬園は、徳川家光によって、寛永15年(1638)に開設した麻生(あざぶ)御薬園と大塚御薬園です。これらの薬園は、やがて小石川御薬園、駒場(こまば)御薬園となり、長崎や京都にも将軍家の御薬園が開設されていくことになります。このように、初期の薬園は幕府のものがほとんどでした。この両園でとれた薬種が、尾張藩(おわりはん)をはじめとする御三家(ごさんけ)に下げ渡(わた)されました。

幕府による薬園推進(すいしん)の政策(せいさく)を受けて、尾張徳川家も薬園を開設することになります。『徳川実紀(とくがわじっき)(19世紀前半に編纂(へんさん)された江戸幕府の公式史書(ししょ)です)によれば、寛永17年12月将軍家光が尾張藩主義直(よしなお)(およ)び水戸藩主に「薬園の薬材55種づつ」を下げ渡したとあるのを始めとして、寛永20年、正保(しょうほう)2年(1645)、同3年、慶安(けいあん)元年(1648)、同2年にも下げ渡された記録があります。2代藩主光友(みつとも)の時代の尾張藩の日記には、承応(じょうおう)元年(1652)12月2日幕府御薬園の御薬種39種が下げ渡され、薬草栽培をしたとの記録があります。これが「御深井(おふけ)御薬園」と呼ばれる薬園で、名古屋城本丸の北側、御深井あるいは下御深井(したおふけ)と呼ばれる庭園の一角を中心に営まれたと考えられています。御深井御薬園のうち最初に開設された部分が本御薬園とか元御薬園と呼ばれ、後に新御薬園が加えられています。

尾張藩御深井御薬園
尾張藩御深井御薬園は、御深井丸の北側に広がっており、本御薬園の西側に順次、新御薬園が追加されていくことになります

御深井御薬園については、「尾張藩御深井御薬園絵図」やその原図と言われる徳川美術館(びじゅつかん)所蔵(しょぞう)の「御薬園之図」(17世紀後半頃の成立と推定)が残されています。この図によれば、四方は堀(ほり)で囲(かこ)まれ、北は東西87間(約158m)、南は東西約68間半(約125m)、東は南北42間(約76m)、西は南北43間(約78m)で、北に開いた逆(ぎゃく)台形となり、坪数は約3,350坪とあります。

薬園内部は、中央から西側に藩主の休憩所(きゅうけいじょ)となる御薬苑堂とスアマ(州浜)が置かれ、西側には薬園奉行(ぶぎょう)と推定される長七郎家が設けられていました。御薬苑堂(おやくえんどう)の東側には、整然と区画された7箇所の薬草花壇(かだん)と御土蔵(おんどぞう)が、西側との間に直線の杉並木(すぎなみき)を挟(はさ)んで菜園が置かれていました。広い東側は、農園が広がっていたようです。この薬草園の図には、すべての植物に詳細な絵と名前が書いてあります。それによれば、薬草花壇で栽培されていた薬草は、39種と幕府からの拝領薬種とまさに同じ数となっているのです。

なお、御薬園は、尾張徳川家当主の私的な遊興(ゆうきょう)(お酒を飲んで遊ぶことです)空間・儀礼(ぎれい)(一定の法にのっとった礼式のことです)空間でした。そのため立ち入りは制限(せいげん)され、当時、一般(いっぱん)には知られることのない秘園(秘密(ひみつ)の場所のことです)だったのです。

御薬園之図
「御薬園之図」を解りやすく書き直しました。この図は、花期や成長の異なる薬草が一斉に開花した姿が描かれています。開設してから数年たってからの図と考えられています

薬園の拡大

8代将軍吉宗(よしむね)の頃、薬の原料となる薬草木を欲(ほ)しいという人々の声が高まってきます。そのため、国内の薬として役に立つ植物の事を調べることや、外国産を増(ふ)やすための政策が進められました。吉宗の命によって、国内の本草学(ほんぞうがく)(医薬に関する学問です)は発展(はってん)し、幕府による新たな薬園も造(つく)られています。薬草木が高価(こうか)な商品として売ったり買ったりされるようになると、幕府や各藩の手により、薬園が次々と造られるようになりました。こうした薬園の設置は、高価な商品の偽物(にせもの)が出回るようになったため、偽物を見分けるために比較(ひかく)検討(けんとう)する見本としての役割(やくわり)を担(にな)うことにもなったのです。

江戸時代中期以降(いこう)になると、各地で産出する物の調査(ちょうさ)や開発が行われ、各藩においても薬園が造られるようになっていたのが解ります。記録に残るだけでも北は松前から南は薩摩(さつま)まで実に31箇所に存在(そんざい)していました。薬園では、薬用や食用に役立つ植物が栽培されていました。万一の場合にそなえて薬をたくわえておくことが最大の目的で、栽培する数量などが多すぎる場合は、余(あま)った薬を販売することによって財政(ざいせい)を潤(うるお)す効果もあったのです。

薬園で栽培された薬草木は、100種前後であったと推定されています。安政3年(1856)の『御薬園御薬草木改帳』(薬園にはどのような薬草木があるかを調べた本のことです)によると、88種の植物が記されています。今でも、漢方薬として使用されているヤマクコ、ゴシュカ、カンゾウ、キキョウ、オウギなどが記されています。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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