前田慶次の『どうする家康』徹底解説! 前田慶次のどうする家康徹底解説!【第3回】~秀吉の思惑!家康の真意とは~

現在好評放送中のNHK大河ドラマ『どうする家康』。城びと読者の皆さんが余すところなくストーリーを楽しめるよう、徳川家康と同じ時代を生きた名古屋おもてなし武将隊の前田慶次様が、独断と偏見による会話劇を交えながら慶次様から見た家康の生涯”やドラマで重要になりそうなポイントを徹底紹介! 連載第3回となる本記事では、天下取りの志半ばで亡くなった織田信長の後継者を巡る、羽柴(豊臣)秀吉との対立をクローズアップ。平和を願う家康が「小牧長久手の戦い」にかけた思いや、重臣・石川数正の出奔など、ドラマでも印象的だったポイントを掘り下げます。

皆の衆、我こそは名古屋おもてなし武将隊天下御免ノ傾奇者前田慶次である。いつも我が連載「前田慶次の自腹でお城めぐり」を読んでくれてありがとさん!

此度より特別連載を開戦致すのじゃ! その名も「前田慶次の『どうする家康』徹底解説!」。2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』を百倍楽しんでもらうべく、分かり易くドラマを視聴する上で必要な知識を儂が教えて参る!

前田慶次

 

前田慶次とは

齢四八十一歳。名古屋おもてなし武将隊の一角として、名古屋城を拠点に活動中。
YouTubeチャンネル「前田慶次 戦国時代チャンネル」やTikTokで歴史文化を面白おかしく大切に伝えている。
歴史研究家の小和田哲男氏や歴史タレントれきしクン等とコラボしたり歴史講演会や学校で歴史授業を精力的に行ったりしている。
NHK「さらさらサラダ」などTV番組でも、地元の歴史や史跡なども紹介している!
〇城びと(web)連載
〇名古屋城検定名誉顧問
〇日本城郭検定準1級

【徳川家康の生涯】

■壮絶な前半生
天文11年(1542)、三河国岡崎城(愛知県)で誕生。生まれてすぐに両親が離縁。織田家と今川家で人質生活を送る。
桶狭間の戦いを経て今川家から独立し織田信長と「清州同盟」を結ぶ。徳川家康と名乗る!

■信長と駆け抜ける葛藤の時期
元亀元年(1570)、姉川の戦いにて強敵、浅井・朝倉連合軍を倒す!
戦国最強の武田信玄と激突。人生において大きな敗北を経験。
信長と共に長篠・設楽原の戦いで武田軍を倒す!
然し、信長が妻と息子へ処罰を与え、家康自らの命で2人は命を落とすことに。

■戦国のカリスマ秀吉との戦い
天正10年(1582)、本能寺の変で信長が倒れる。織田家を継いだ羽柴秀吉と徳川家康は対決!
小牧・長久手の戦いにて家康は勝利を収めるが秀吉の政治的動きに敗北。秀吉の配下となる!
後の隠居の地である駿府城(静岡県)を完成させる!
天正18年(1590)天下統一戦である小田原征伐にて北条を倒し関東に移封。江戸城(東京都)入城。
異国出兵と秀吉に次ぐ巨大勢力で確実に立場を確立する!

■将軍へ。江戸幕府誕生
慶長3年(1598)、秀吉が倒れ、豊臣政権重鎮前田利家も倒れる。
家康は遂に天下を掴むために行動に移す。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いにて東軍をまとめ西軍を倒し、慶長8年(1603)征夷大将軍に就任。江戸幕府を開く!
将軍職をすぐ息子に譲り大御所となるが、政治には大きく関わり実質権力は家康が握った!

■徳川治世の為に大戦
秀吉の子、豊臣秀頼が成長し世は再び二分される。家康は徳川治世の為に再び大戦を仕掛ける!
慶長19年(1614)、大坂の陣が勃発。豊臣勢を退け、翌年には大名を統治する為に武家界の法律である武家諸法度を定める!
元和2年(1616)、徳川と日ノ本を安泰へ導き太政大臣となり役目を果たしたかの如く家康安らかに眠る。

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1.天下分け目の戦い「小牧長久手の戦い」どうする?秀吉包囲網?作戦は?最初で最後の直接対決!

儂前田慶次の家である前田家も巻き込まれた大戦、小牧長久手の戦いこそ「天下分け目の戦い」第一陣であったと儂は思う! 世で申す関ヶ原の戦いが天下分け目の戦いと呼ばれるが、それ以前の此の戦こそが重要であった理由を話そう。

小牧長久手の戦いは徳川家康様対羽柴秀吉様による天正12年(1584)に起きた大きな合戦である。本能寺の変で倒れた織田信長様亡き織田家臣団は混乱に陥った。それを一枚岩へまとめ上げたのが秀吉様であった! 秀吉様が当時最も強大な勢力の頂に立ったのは、周りからしても意外という反応と同時に反対の声が多かった。庶民出身の秀吉様に付き従うの事を渋るのもまた、“時代”であった。

特に信長様の御子息である織田信雄様は反秀吉を掲げた!(理由は秀吉様の横暴な態度が大きい)

慶次「秀吉様は信長様に習い正月に家臣達に挨拶に参れ!と要請していた。何と信雄様にもそれを伝えた! 無論、信雄様は激怒。猿が何を申しておる。父の家臣であった秀吉は自分に従うべきと考えていたわけじゃ」

信雄様は父信長と同盟を結んでいた徳川家康様を頼り同盟を結んだ!

慶次「徳川様としては信雄様と同盟を結ぶ、つまり秀吉様との対決への覚悟が見られる。なぜ対決しようと考えたのか。軍の勢力で考えても織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴軍では数が違い過ぎたが、織田軍の看板を持てば諸国大名達とも連携が取れる算段があり勝機を見出したのであろう。また、成り上がり者の秀吉を引き摺り下ろすのは、個人的な感情もあったように儂は考える!」

大河ドラマ『どうする家康』では正に、徳川様が見てきた秀吉様の危険性が敵対する要因として描かれた。

天正12年3月〜11月、織田徳川連合軍対羽柴秀吉の対決がこうして起きた。結果10万人以上を巻き込む合戦であり、本戦は小牧長久手の地であるが全国各地で呼応した諸大名や傭兵集団が同時多発で戦を仕掛け、正に天下分け目の戦いと言えよう。

徳川様は兵力で劣るが勝つ為の作戦があった! それは「秀吉包囲網」を築き上げる事であった。

慶次「その影響で我が前田家は北陸勢として徳川勢の佐々成政殿と戦ったのじゃ。結果儂の大活躍で前田家の大勝利じゃ!!」

他にも、関東の北条、紀州の雑賀衆・根来衆(傭兵集団)、四国の長宗我部等が連合軍に参陣し秀吉軍を圧迫した。

慶次「この時点で各地と同盟を結んだ徳川様の行動は、ドラマで成そうとしている泰平の世の作り方をしていたわけじゃ!」

2.的確な作戦で勝戦!然し家康の誤算…

結果、織田徳川連合軍は羽柴秀吉軍を小牧長久手の戦いで打ち破り勝戦となったが、徳川様の的確な見事な作戦と大きな誤算があった。

まず一つは、秀吉様(本隊)の出陣を遅らせるという現世のファインプレーなるもの! 先程伝えた諸大名との連携により、本隊となる大坂に攻撃を仕掛けたことで決戦地となる尾張国入国が遅れた! 此れが合戦において有利に進んだんじゃ!

天正12年3月29日 羽柴軍10万が小牧山より北東にある「楽田」に、織田徳川連合軍3万が小牧原に着陣。徳川様の見事な作戦に羽柴軍は裏を突かれて主力を失い、連合軍の大勝利で終わった。江戸時代の史料では「家康の天下取りは関ヶ原に非ず、小牧にあり」と記される程であった!

そして、大きな誤算は織田信雄様の人望の無さと行動。信長様時代の家臣達は信雄様が秀吉様に勝てると考えた者が殆どいなかったのであろう。秀吉様に味方する者が多く、

徳川「信雄殿ここまで人望が無いのか…。今後の付き合い方を考えねばならぬな」

現に徳川様の家臣である三河勢は忠誠心が強く、主家を見放す行動には驚きであり誤算であった。

慶次「むしろ、徳川様の家臣団の忠誠心が異常である! また、織田家が実力主義で登り詰めた集団であることが露呈したと言える」

徳川家臣団の忠誠心はドラマでも度々描かれておる! して、合戦に敗れた秀吉様であったが信雄様の領土を圧迫し続け11月15日に信雄様を単独で講和に成功。徳川様は戦う大義名分を失い、兵を収めることになり合戦は終戦。

慶次「信雄様が勝手に講和を結ぶとは徳川様も考えに無かったであろう。事実上戦略的に敗北したわけじゃ。別の見方をすれば、徳川と刃を交えるのは得策でないと思わせた徳川軍の脅威と秀吉様の次なる行動の速さに目が行く。秀吉様は徳川家臣団の強さを知り、後に領土を遠ざける(関東へ転封)のに繋がっていったのやもしれぬ」

3.徳川家臣の対立と重臣の出奔にどうする?周囲の反応は?

大河ドラマ『どうする家康』でも注目を集めた徳川家重臣・石川数正の出奔を始め、徳川家中においての対立問題も知ってもらいたい。

小牧長久手の戦いを経て直ぐに徳川家康様は秀吉様に従ったわけでなかった。秀吉様から人質を出せと要請! 徳川様は「於義丸(おぎまる)」(後の結城秀康)を養子の名目で人質に送ったが、徳川様自身が家臣になることは無かった!

慶次「問題はここなんじゃ。実はこの人質を送る問題は徳川家中で対立騒動が起きたそうじゃ。先ず人質を送る事を勧めたのは織田信雄様であったと聞くが」

重臣本多忠勝、酒井忠次は人質を送るべきではない!と徳川家中の多くは反対した!然し、重臣石川数正は人質を送り秀吉に従うべき。兵力差もあり長期の戦こそ不利であると考えたのであろう。徳川家中は割れたのであった! 結果は先に先述した通り。

慶次「色んな考え方が現世でも御座るが、一つ大切な事は“生き残る”という事。乱世において破竹の勢いであった信長様が討たれることを誰が想像したか。武田や三好など名前を挙げればキリがないが、何が起きるか分からぬのが乱世。先ずは生き残ることを優先した徳川家であった!」

時は天正13年(1585)、真田と戦い打ち負かされた徳川家。石川殿が此れを経て長年主君と従って参った徳川家を出奔し羽柴秀吉様の臣下に。

慶次「『どうする家康』では石川殿は羽柴方との外交担当として活躍した。羽柴と徳川の勢力の差を痛感し『秀吉には勝てぬ』と悟る場面は印象的であり、自ら敵方羽柴へ出奔する事で徳川の見張り役に任じられ、殿(家康)を支える事に繋がると考え行動! あらゆる解釈があるが、重臣として支えたい石川殿目線が誠に素晴らしかったのう!」

この点に関して。

慶次「出奔後、徳川様は家中に石川の出奔は気にするでない!と伝えておったそうじゃが、実際はかなり気にされておったのが伺える!」

徳川家臣団の強みである忠誠心が崩壊したわけじゃから、家中も震撼する出来事であったろう。徳川様も家臣達から人質を徴集し、今一度忠誠心の真意を見定めるのに躍起であった。また、徳川家臣団は降っておらぬが徳川に同調していた周囲の味方達は殆どが秀吉様に降っており、状況も含めて徳川家はこの時分最も慌てていた時期と言っても過言ではなかろう!

4.家康、秀吉政権でどうする?なぜ臣従した?

時は天正14年(1586)、遂に徳川家康様が秀吉様の臣下になる時が参った。

前年に大きな地震が日ノ本を襲い各地の被害は相当なものであった…。互いに決戦どころではない状況にもなったが、この隙に徳川様は北条と同盟を結び背後を盤石なものとし秀吉様との決戦に備えた!

慶次「ここで動いたのが秀吉様! 流石は天下人の采配と申すか。己が妹である旭姫を徳川様に嫁がせて、徳川様を権中納言に昇進させ、母である大政所様をも人質に出したのじゃ!」

此の奇策、行動に徳川様遂に秀吉様への臣従を決意!

慶次「これには、旭姫と大政所様の説得?調略?行動?が功を成したのではないかと考える」

結果を見れば、人質が参った故に「そこまでするなら…」という感情を捉える者が多いと思うが、それだけで臣従するとは、儂は思えぬ。恐らく旭姫と大政所様の尽力があったのではなかろうか?

それを紐付ける理由として、徳川様はこう語っておる。「自分が秀吉に殺されても妻(旭姫)はすぐ京へ送り返してやれ」と家臣に指示していたそうじゃ。他にも天下を取られた後に菩提寺の寺領を保護し追善供養を命じている。人質としての扱いとは思えぬ故に良好な関係を築かれたと思う! 色んな想いと状況が重なり徳川様は秀吉様に臣従したのではなかろうか?

また、臣従される時に斯様な言の葉を残されておる!

徳川「秀吉と徳川家康が講和しなければ、天下はいつまでも平和にならぬ。自分が殺されても、秀吉が殺すのではなく天が殺すのだ。」と伝わる!

正にドラマとしても苦渋の決断が描かれながらも平和を最も望む徳川様の最終決断が印象的であった。

秀吉様に臣従してからの徳川様は豊臣政権の右腕、いわゆるNo.2の勢力として天正18年(1590)関東小田原征伐を始め多くの合戦で力を見せつける! 北条が治めていた関東6カ国を与えられ「関東移封」となり秀吉様の命に従い、関東東北方面の一揆などの鎮圧に奔走!

5.なぜ関東?秀吉の思惑!

なぜ秀吉様は徳川様を関東へ移したのか?

大前提として知って欲しいのは「武士は先祖代々の土地を大切にする精神である!」。つまり移封というのは、できれば避けたい辞令。信長様が勢力を拡大し褒美として領土を頂戴する流れが生まれたが、先祖の土地を他の誰かに渡し、見ず知らずの土地に参るのは出世欲が強い者ならば(秀吉様のように庶民出の方等)喜ぶ者も多いが、皆が喜ぶとは限らぬ話なんじゃ。徳川様は三河国を大切にされており、そこを離れ関東へ参る場面はドラマでも描かれ、家臣一同猛反発が印象的であったろう? それは先述した通りじゃ。

秀吉様からすれば、徳川を遠ざけ自身に従わぬ東北勢はそのまま徳川に任せよう! 更に北条なき関東を統治するのも苦労である故に、それが出来るのは徳川しかおらぬ!と考えたのでは無かろうか? また、東海で築き上げた徳川勢力を削ぐこともできる! いつ反乱するか分からぬ徳川勢力を弱体化させる狙いを感じる!

最大の狙いは?

慶次「儂は更に秀吉様が徳川様を関東へ移す理由があると思うのじゃ。それこそが最大の狙いと」

国内内乱により徳川御家潰し! これじゃ。

実は秀吉様は此の転封作戦で邪魔者を排除した前例がある! 秀吉様に反抗していた佐々成政(さっさなりまさ)殿は一揆が多い肥後の地を与えられた。統治ができず内乱の責任で切腹させられた。つまり、北条の影響力が強く残る関東の統治は難しく力を削ぐどころか、責任問題で処分できるやも、と考えたのであろう。

という秀吉様の予想?とは裏腹に徳川様は江戸の地を住みやすく土地を整えて今の東京に繋がる地盤を築かれた! 江戸の地は湿地帯ではあるが、河川運搬に恵まれ発展の伸び代が大きいと考えられたのであろう。徳川様は2年ほど家臣に江戸の普請を任せて関東を留守にし、肥前名護屋(九州)へ参り異国との戦に向かった。此れが世に言う「朝鮮出兵」である。

如何であったか。

ドラマも後半戦となり関ヶ原の戦いや征夷大将軍就任、大坂の陣という大きな出来事が残る。50代以降の徳川家康様はどう成長していくのか。ドラマの見所は「歴史的史実の点と点の穴埋め」と儂は思うておる。人間が行動に移す時には、必ず感情が伴う。史実に起きた事実を脚本を始めスタッフ陣営と演者の方々がどう解釈し、人物の気持ちをどう代弁するか。儂も一視聴者として楽しむし、このように連載や解説動画にてより多くの者に歴史文化を楽しんでもらえるよう尽力致す!

次回は徳川家康様の晩年についてお届け致す!

次回の記事も楽しみにしてちょ!

以上
名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者 名古屋城検定名誉顧問 城びと連載人
前田慶次郎利益

執筆・写真/前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)

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