お城紀行〜城下と美味と名湯と お城紀行〜城下と美味と名湯と 第2回 |【赤穂城・後編】秀吉が愛した名湯・有馬温泉へ…

お城はもちろん、その城下町にある美味しいグルメや温泉を紹介する「お城紀行〜城下と美味と名湯と」。今回は忠臣蔵の赤穂浪士のふるさと・赤穂城(兵庫県)で義士たちの魂に触れる旅。お城の後は秀吉が愛した名湯・有馬温泉へ※初掲 2017年12月20日。2022年10月4日更新


折れが多様された城壁、そして無骨な天守台

赤穂城、天守台、本丸、庭園、復元
天守台から見下ろした本丸。発掘調査に基づいて庭園が復元されている

老若男女に愛される忠臣蔵、そして赤穂四十七士。彼らが起こした吉良邸の討入りは、江戸で起きた事件だけに身近に思える。義士(浪士)たちの墓がある泉岳寺や、本所の吉良上野介邸跡を見ただけで事件を知った気にもなりがちだ。ただ、その忠臣蔵の総本山である、赤穂浪士たちの故郷も忘れてはいけない。そう思って訪ねた赤穂城。三の丸の大石神社への参拝を済ませたところで、二の丸・本丸方面へと「討入って」みよう。

二の丸門へとつながる土橋をわたる。この城は変形輪郭式という、ちょっと変わった造りになっている。最初にこの縄張をつくったのが甲州流兵学者の近藤正純という人物で、その後に軍学者・山鹿素行の助言のもと、改修が加えられたのだ。山鹿素行はもともと会津の生まれらしい。それから江戸に出て朱子学や軍学を学んで、赤穂藩お抱えの学者になり、藩士たちにも教えを施した。いわば会津武士が赤穂浪士の思想の先生でもあったわけで、それがまた会津藩の武士にも大きな影響を及ぼしたであろうことは想像に難くない。長大な城壁には、軍学者の縄張であることを物語るように、数多くの狭間が開いている。

折れがたくさん施された城壁は、いわゆる「横矢掛かり」が数多く仕掛けられる構造になっている。実際に赤穂城が戦場になったことはないが、いざ「敵が攻めてくれば一網打尽にしてやろう」という軍学者の意図が感じられる縄張だ。充分な兵力さえあれば長期籠城戦も可能だったのではないかなあ、などと妄想を逞しくさせてくれる城跡である。

赤穂城、本丸、屏風折れ、石垣
本丸は屏風折れを多用した石垣に囲まれている

赤穂城、本丸大手門、塀、狭間
本丸大手門。塀には狭間が所狭しと設けられている

そして、広大な本丸跡の一角にそびえる石の塊が城の中枢・天守台である。
「な~んだ。台だけで、なんにも無いよ」
やっぱり、見学者からはチラホラそんな声も聞こえる。でも、これで良いのだ。なんにも無いわけではなく、この城は天守台があるということ自体に意味があるのだ。江戸時代を通じ、この上には天守が築かれたことはなかった。おそらく、そのうち造ろうとして、そのままになったのだろう。それも仕方のないところだ。何しろ家光の時代の「明暦の大火」で江戸城の天守が焼け落ちて、再建されないままになった。江戸城ですら天守を建て直さなかった手前、小藩である赤穂藩が、あの時代には「お飾り」と見なされた天守を、造るわけにはいかなかったのだろう。

江戸城と同じく、ここへ来たからには天守台に登らねば。天守台から見下ろす城内の眺めは格別のものがある。かつては御殿の周りや庭園を、沢山の人々が往来していたのだろうなあ、などと想像するのも楽しい限りである。赤穂浪士の魂、存分に感じた。そろそろ戻ろうか。赤穂には少し離れた海岸のほうに温泉もあるので、この日はそのままここに泊まりたかったのだが、翌日は朝早くから神戸へ行く予定があった。そこで、やむなく赤穂とお別れして神戸へ戻ることにする。

赤穂城、本丸、天守台、高石垣
本丸奥に立つ天守台。建物こそ建っていないが、9mを誇る高石垣は壮観である

秀吉が造らせた岩風呂が残る古湯・有馬温泉へ

いったん神戸へ戻り、そこからバスで向かったのが名湯・有馬温泉。江戸時代の東の大関・草津温泉に対し、西の大関に格付けされた有馬温泉(当時まだ横綱は無い)。名実とも最高の温泉として評判高かった。今宵はここでのんびりしよう。

そして有馬といえば豊臣秀吉。温泉街入口にある「太閤橋」のたもとには豊臣秀吉の銅像が鎮座する。そして、有間川にかかる赤い橋(ねね橋)には、妻・寧々の銅像も立っている。この有馬温泉に、秀吉は都合9回ほど訪れたという。天下人といっても忙しくて気が休まる時もなさそうだし、温泉に癒しを求めたのだろう。秀吉は、ここに大きな湯殿を建て、諸大名を招いて茶会も催したという。温泉街には「太閤の湯殿館」という施設があって、秀吉が浸かったという岩風呂の跡がしっかりと建物の中に保存された状態で見学できるようになっている。

赤穂城、太閣橋、豊臣秀吉、有馬温泉
太閤橋の豊臣秀吉像。有馬温泉には秀吉ゆかりの地名や施設が残っている

赤穂城、豊臣秀吉、岩風呂、遺構
秀吉が使用していたとされる岩風呂の遺構

有馬といえば、褐色に濁った金泉。源泉に含まれる鉄分が空気に触れると酸化して、独特な色になるのだ。これに白いタオルを浸けると、茶色く濁ってしまう。黄金とはいえないけど、黄金の茶室を造ったほどの秀吉だから、こういうくっきりとした色の湯は好きそうだ。

有馬温泉は歴史が古いわりに建物が新しく、大きめのホテル級の宿が多い。温泉街も都会的。あくまで個人的なことをいわせてもらえば、私好みの、ひなびた風情とか老舗が建ち並ぶ古風な情緒とか・・・そういうものがあまり感じられないのは残念である。ただ、それもこれも、1995年の阪神大震災で大きな被害を受けたからに他ならず、仕方のないところかもしれない。

まあ、それでもいい宿は結構あるもので、この日に泊まった「上大坊」などは普通の民家的な外観からもわかるように、こぢんまりしていて落ちつける。夫婦や家族でのんびりするにも丁度良く、妻も喜んでくれた。内湯も味があっていい。宿の地下にある浴室内は、金泉の成分でこげ茶色に変色し、濃厚な湯が溢れている。こういう極上の金泉に、太閤も浸かったんだろうな・・・と思いを巡らせ、のんびり身体を休めた。


赤穂城、有馬温泉、金泉、褐色
有馬温泉の金泉。塩分や鉄分を多く含んでおり、空気に触れると褐色に濁る。(神戸市広報課提供)

赤穂城、有馬温泉、町並み
有馬温泉の町並み

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城プロフィール
赤穂城(兵庫県赤穂市)
赤穂城は、元和の一国一城令後に浅野氏によって築かれた城。海に面した平城で、軍学者の山鹿素行が縄張を手がけた。浅野氏改易後は永井氏、森氏が入城し、明治維新を迎える。廃城令により建物は存在しないが、近年発掘調査や復元整備が進み、往時の姿を取り戻しつつある。

執筆・写真/上永哲矢(うえながてつや)
神奈川県生まれ。歴史文筆家。旅行ライター。日本史・三国志を中心とした歴史の記事、全国をめぐっての旅・城・温泉ルポを雑誌などに寄稿する。歴史取材の傍ら、ひなびた温泉に立ち寄ることが至上の喜び。近著に「三国志 その終わりと始まり」(三栄書房)、「高野山 その地に眠る偉人たち」(三栄書房)、「ひなびた温泉パラダイス」(山と溪谷社)がある。

※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています

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