お城紀行〜城下と美味と名湯と お城紀行〜城下と美味と名湯と 第2回 |【赤穂城・前編】忠臣蔵のふるさとで義士たちの魂に触れる

お城はもちろん、その城下町にある美味しいグルメや温泉を紹介する「お城紀行〜城下と美味と名湯と」。今回は忠臣蔵の赤穂浪士のふるさと・赤穂城(兵庫県)で義士たちの魂に触れる旅。※初掲 2017年12月14日。2022年10月4日更新


あちこちで浪士たちと出会える。さすが、忠臣蔵のまち

赤穂城、大手門、大手隅櫓
復元された大手門と大手隅櫓

播州赤穂・・・。これほど響きが良く、歴史ファンの胸に訴えかけてくる駅名が他にあるだろうか。

「どうして、わざわざ播州って付いてるの?」

その行き先を見て、隣のシートに座る妻がそう聞いてきた。もっともな問いだ。昔、飯田線に赤穂(あかほ)駅があり、区別するために付けたのがそのままになっているらしい。あえて播磨ではなく、播州というところがまた粋ではないか。

赤穂城、赤穂線、車両
赤穂線の車両

播州の城といえば、国宝・姫路城が有名だが、すでに何度も訪ねているし、やっぱり年末というか、12月14日が近づくと、「忠臣蔵」「赤穂浪士」が思い出されるところ。ということで、今回はその赤穂浪士のふるさと、播州の赤穂城を訪ねてみることにしたのである。

電車を降り、駅前に立つと、「ようこそ赤穂へ」の文字とともに「忠臣蔵を大河ドラマへ」と大書きされた横断幕が迎えてくれた。忠臣蔵は『赤穂浪士』『元禄太平記』『峠の群像』など、たびたび大河ドラマのテーマに選ばれている。それでも1999年の『元禄繚乱』以来、少し遠ざかっているのも事実だ。いつも戦国か幕末ばかりだし、地元民にしてみれば何度でも来い、といったところかもしれない。横断幕を背に、勇ましく大石内蔵助の銅像が立ち、町を見守っている。さて、記念撮影も済んだので、赤穂城をめざして歩こう。

町中、いたるところ赤穂浪士。マンホールの蓋にまで絵が描かれているのが素晴らしい。さっきチラッと見えたけど、郵便局までが家紋があしらわれ、お城風のなかなか素敵な建物だった。市民たちのただならぬ「赤穂浪士愛」を感じる。

赤穂城、息継ぎ井戸
「息継ぎ井戸」は城への道程にあるので、忘れずにチェックしよう

こちらも赤穂浪士ゆかりの「息継ぎ井戸」。元禄14年(1701)、江戸で起きた浅野内匠頭による刃傷の第一報を伝えるため、お国へ早駕籠で帰って来たのが萱野三平と早野藤左衛門。この井戸で給水し、一息ついてから城内の大石内蔵助邸へ入ったそうだ。

赤穂城、播州赤穂駅、大石内蔵助像
播州赤穂駅前に立つ大石内蔵助像。采配を振るう姿が勇ましい

赤穂城、マンホール、赤穂浪士
赤穂の町ではマンホールにも赤穂浪士が描かれている。デフォルメされた姿がかわいらしい

南へ歩くこと10分ちょっと。三の丸の大手櫓と大手門に着いた。この赤穂城は駅からまっすぐ、平坦な道を歩いていればたどりつける。平城はいい。登ったり降りたりしないからいい・・・おっと。そんなことを言ったら、山城好きの皆さんに怒られてしまいそうだ。ただ残念なことに、赤穂城には建物が現存しない。この櫓も1955年の復元物。明治の初めに撮影された写真があるが、忠実な復元ではなくイメージで復元された模擬櫓だそうだ。それでも、こうして町の中心部に水堀があって、白亜の建物がそびえているのを見るだけで、「ああ、ここが城下町だったんだなあ」と実感できるのが嬉しい。

有名な割には、たった5万石の赤穂藩。最初の藩主は、信長や秀吉に仕えた池田輝政の弟・長政。いわゆる分家の殿様だった。その次の代に、常陸の笠間藩からやってきたのが、浅野長直(ながなお)。秀吉政権で五奉行をつとめた浅野長政の甥っ子で、これも浅野の分家。にも関わらず本丸・二の丸・三の丸からなる、不釣り合いなほどに大規模な城を建てた。だから赤穂藩は江戸時代の初めから懐事情が厳しくて、お金に苦労したそうだ。

ファンならずとも一度は見たい、浪士ゆかりの遺品群

さて、一息ついたところで城門をくぐる。この三の丸は藩士たちの住まいがあったところ。そのうちのひとつが大石良雄宅跡だ。道沿いには往時を偲ばせる長屋門が残っている。何度か、解体修理されてはいるものの、木材などは当時のまま。刃傷沙汰を知らせに来た使者たちが叩いたのもこの門だそうで、重厚感がある。貴重な歴史の語り部だ。

赤穂城、門、赤穂浪士
修理を重ねつつも往時の姿をとどめる門は、赤穂浪士が地元の人にいかに愛されているかを教えてくれた

そして、その門の内側は赤穂浪士を祀る「大石神社」となっている。江戸時代に公然と赤穂浪士を偲ぶのは幕府への遠慮からタブーであったが、事件からちょうど200年後の明治33年(1900)、明治政府の許可を得てようやく浪士たちの顕彰が許されたことから、神社が建立されたそうだ。参道には等身大の四十七士の石像がズラリ。この町にとって、彼らがいかに大きな存在であるかをうかがわせる。眺めていると、遠い昔の元禄赤穂事件が、リアリティを帯びた事件にも思えてきて、神妙な気持ちになってきた。

赤穂城、大石神社、赤穂四十七士、ゆかりの人物
大石神社は赤穂四十七士のほか、浅野家3代や森家7代など赤穂藩ゆかりの人物を祀っている

境内には義士史料館がある。入館料は450円。内部には大石内蔵助が所持した備前長船清光・康光の大小刀、討入りに使用した采配、形見の呼子鳥笛、堀部安兵衛着用の鎖頭巾・鎖襦袢などが展示されている。非常に見応えある遺品ばかりで目を奪われる。

館内には浪士たちの主君・浅野内匠頭の像をはじめ、浪士たちの像も全員分がつくられ、置かれている。そう、ここは内蔵助邸の跡地であると同時に、浅野の殿様の城だったところ。やはり殿様がいなくては。浪士たちも一人ひとりが存在感を放ち、大切に偲ばれていることがよ~く分かる。別館にも浅野家・大石家の宝物があるほか、物々しい甲冑や武具が目に付く。これは浅野家が改易になった後に赤穂藩を治めた森家に伝わる宝物。森家は、あの織田信長の重臣だった森可成(よしなり)や、森蘭丸からつながる一族だ。江戸時代を飛び越えて、遠く戦国の世まで思いを馳せてしまうのであった。

境内の建物には、内蔵助の他に、りく夫人や子供たちの等身大人形があり、在りし日の面影を伝えている。こんなふうに、家族で仲良く過ごしていた内蔵助一家も、あの元禄赤穂事件で運命が一変してしまったのだ…。義士たちが讃えられ、世を去っていった一方で、残された家族たちは本当に大変な思いをしたわけで、それを思うと胸が締め付けられるようだ。見入っているうちに、つい長居しすぎてしまった。妻も先へ行きたがっているし、しっかりと神社で参拝を済ませたら、さらに城内(本丸)へ向かうとしよう。

赤穂城、甲冑、森氏
浅野氏改易後に藩主となった、森氏ゆかりの甲冑

後編へつづく


城プロフィール
赤穂城(兵庫県赤穂市)
赤穂城は、元和の一国一城令後に浅野氏によって築かれた城。海に面した平城で、軍学者の山鹿素行が縄張を手がけた。浅野氏改易後は永井氏、森氏が入城し、明治維新を迎える。廃城令により建物は存在しないが、近年発掘調査や復元整備が進み、往時の姿を取り戻しつつある。

執筆・写真/上永哲矢(うえながてつや)
神奈川県生まれ。歴史文筆家。旅行ライター。日本史・三国志を中心とした歴史の記事、全国をめぐっての旅・城・温泉ルポを雑誌などに寄稿する。歴史取材の傍ら、ひなびた温泉に立ち寄ることが至上の喜び。近著に「三国志 その終わりと始まり」(三栄書房)、「高野山 その地に眠る偉人たち」(三栄書房)、「ひなびた温泉パラダイス」(山と溪谷社)がある。

※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています

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