三仏寺城からの転戦です。ゲート手前(36.147969、137.294123)の四天王神社前に駐車しました。
天文年間(1532年 - 1555年)に平野豊後守安室(鍋山安室)によって築かれたといわれています。安室が鍋山に築城し、鍋山氏を名乗りました。
鍋山安室は三木姉小路氏の臣下となり、養子に三木顕綱を迎えますが、顕綱は安室を毒殺し、養母小峯の方と左近大夫を追放し、鍋山城を乗っ取りました。
追放された左近大夫は越前国大野城の金森長近を頼って落ちました。
顕綱は、八日町の戦いの3か月後に謀反の嫌疑(羽柴秀吉への内通)により、兄である姉小路頼綱(三木自綱)により鍋山城内で妻と共に暗殺されました。
その後、鍋山城は頼綱の次男・姉小路秀綱が城主となり、家督を譲られた後、本城の松倉城へ移動し、三男の李綱が鍋山氏を継ぎ鍋山城主となりました。
1585年(天正13年)追放された左近大夫は羽柴秀吉の命によって飛騨国へ侵攻した金森長近に加わって三木氏を攻め、再び飛騨へ復帰することとなりました。
しかし金森氏の飛騨入封後、その処遇に不満があり広瀬氏・江馬氏などと呼応して一揆を起こすが、金森可重によって鎮圧されました。
飛騨国を制圧した金森長近はこの鍋山城へ入って政務を行っていましたが、高山城を築いて居城を移し廃城となりました。
城の築かれている鍋山は北と南に頂部を持つ山で、北側の山頂に主郭部を構え、南の頂部に出丸を構えているようです。
登城口から山道を進んで行くと林道と合流します。さの先に進むと「屋敷跡」の石碑が見えてきます。
さらに進んでいくと出丸と本丸の分岐点に着きます。今回は時間の都合で出丸は諦め、本丸を目指します。
本丸東側に石垣が残っています。
本丸を越えて西へ向かうと尾根先に二の丸がありますが、行っていません。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=増島城に向かう前に、一旦ホテルに戻り朝食をとりました。
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