理文先生のお城NEWS解説 第1回 駿府城の金箔瓦

加藤理文先生の新連載「理文先生のお城NEWS解説」。全国のお城では日々発掘調査や研究が行われていますが、この連載ではお城のニュースについて、こういうところを注目すると面白い、というようなニュースのポイントや注目すべき点を加藤先生から教わります!第1回目は、駿府城の金箔瓦です。「お城EXPO 2018」の会場にも展示された「駿府城の金箔瓦」について詳しく解説します。

駿府城から出土した中村時代の金箔瓦

2018年6~7月、現在の天守台付近の発掘調査によって、約330点(破片数)の金箔を貼った軒丸瓦(のきまるがわら)と軒平瓦(のきひらがわら)が出土しました。その翌月、徳川家康が築いた天守台の南東角の下層から重なるようにして、家康の駿府城とは異なる形状の石垣で積まれていた天守台(南北約37m×東西約33m)が見つかったのです。

石垣は自然石と粗割石を使用し積み上げたもので、天正から文禄期(1573~1595年)の石垣の特徴を示していました。金箔瓦も、同時期のものでしたので、この天守台の上に建てられていた天守に使用された瓦であることがほぼ確実な状況で、豊臣配下の中村一氏(なかむらかずうじ)時代の物になります。

中村時代、天守台
徳川家康の築いた天守台の下層で発見された中村時代の天守台

駿府城から出土した金箔瓦の特徴

駿府城で金箔瓦が出土したのは、今回が初めてではありません。過去には2点の金箔瓦が確認されています。1点目(A-1)は、昭和32年(1957)天守跡において表面採取された軒丸瓦で、2点目(A-2)は平成2年(1990)駿府城整備工事に伴う発掘調査で、本丸北東部の堀跡から出土した軒丸瓦になります。

両者は、同じ版木(はんぎ)から作られた同笵瓦(どうはんがわら)(同じ笵(原型)で作った瓦)です。瓦の直径は18.5~19.0㎝内外で、中央部に三ツ巴文(みつどもえもん)、その周りに12個の連珠文(れんじゅもん)を配置しています。金箔の痕跡は、いずれも微細なもので、瓦当部(がとうぶ)の凹面あるいは全面に金箔が貼られていたと推定されました。

金箔瓦、本丸、天守跡
A-1(右)昭和32年(1957)に天守跡で採取された金箔瓦。A-2(左)平成2年(1990)、本丸北東部で出土した金箔瓦              

今回出土した軒丸瓦も、ほとんど同じ文様で、同笵あるいは同文(どうもん)と思われます。金箔の残りは、上記2点よりはるかに状態は良かったのですが、破片が多く原形を復元できる瓦はほとんどありませんでした。特筆されるのは、金箔の貼り方で、凹面全体に貼った後、文様部についた金箔だけ削り取ったような痕跡が見られます。詳しい分析は今後の調査も待つしかありませんが、現時点では他に例を見ない特別な工程によって造られた金箔瓦と推定されます。過去の2点については、削り取った形跡が認められませんので、削り取ることなく全面に金箔を貼った瓦が存在していた可能性もあります。

軒丸瓦の文様は、中村一氏の前任地である「水口岡山城(みなくちおかやまじょう)」、さらに前々任地である「大溝城(おおみぞじょう)」とも同文で、安土城にまで系譜を求めることが出来ます。さらに、文様区の凹面に金箔を貼るのは、織田政権下の金箔瓦に見られる特徴で、駿府城以外の豊臣系城郭では未確認です。

文様そのものは、奈良系工人にまでたどり着きますが、中村一氏が水口岡山城主の時代に組織した瓦工人の関与があったと考えるのが妥当でしょう。対して、軒平瓦の三葉文を中心飾りに、三反転する飛唐草のモチーフは、安土城や大坂城、伏見城、近江八幡城等でも見られ、奈良あるいは播磨に系譜を求めることが出来ます。

金箔の貼り方は、豊臣政権下の金箔瓦の特徴である凸部に限られます。こちらの瓦についても、近江あるいは畿内の工人集団の手による瓦として問題ないと思われます。この他、鬼瓦や金箔飾り瓦も出土しており、屋根は黄金に彩られた豪華絢爛な姿であったことを物語ります。

駿府城、金箔瓦
2018年10月に発見された駿府城の金箔瓦。野面積の天守台とともに見つかり、中村一氏時代の天守を飾っていた(静岡市観光交流局提供)

金箔瓦の誕生と普及

金箔瓦は、織田信長が安土城で初めて使用し、一門衆以外の使用を禁じた極めて政治色の強い瓦でした。信長の死後、羽柴秀吉が居城大坂城で使用し、その後、弟秀長、甥秀次という一門衆の居城に金箔瓦の採用を認めることになります。さらに、秀吉は、聚楽第、伏見城、名護屋城でも使用します。織田一門以外の使用が認められなかった金箔瓦を、豊臣(羽柴)一門が自由に使用することで、正当な後継者たる地位を天下万民に示す示威行動の一つであったと考えられます。

安土城、金箔瓦
復元された安土城の金箔瓦(国立歴史民俗博物館所蔵)

関白となり、豊臣政権が確立すると、秀吉は金箔瓦の使用を、独占から許認可制へと変化させたようです。現在、豊臣期の金箔瓦は全国32城(豊臣一門衆11城、移築による金箔瓦の移動が確実な5城を含む)で確認されています。配下の城に限れば、その数は16城でしかありません。これらの城主について官位や出自等の、共通項は見出せません。現時点で判明することは、地域の拠点城郭に限っての使用ということだけです。さらに、その3分の1以上にあたる6城(沼田城・小諸城・上田城・松本城・甲府城・駿府城)が、徳川領と接する国に位置しているため、明らかに対徳川を狙った配置としか思えないのです。

徳川領、金箔瓦、城
1590~1600年の徳川領を囲む金箔瓦の城

一門衆と同様軒瓦類までの金箔瓦使用が確認できるのは、蒲生氏郷の会津若松城、前田利家の金沢城、毛利輝元の広島城、仙石秀久の小諸城、中村一氏の駿府城の5城です。小諸、駿府以外の城は、豊臣政権の地域支配の拠点で、その石高も会津が91万石、加賀が100万石程、広島が112万石です。対して、駿府は14万石、小諸にいたっては5万石でしかありません。あまりに異例ですので、これら2城だけに、豊臣仕様の金箔瓦が許された理由があるはずです。それは、関東から大坂に向かう主要街道沿いで徳川領と接する最初の城であったためとしか思えません。

駿府城は東海道、小諸城は東山道(後の中山道)を都へ向かうと、最初に目にする豊臣の城でした。そのため遥か遠くからも燦然と輝く天守を見せようとしたのです。巨大な天守、光り輝く金箔瓦、いずれも当時最新、最先端の技術によってのみ築ける建築だったのです。
政権を脅かしかねない徳川家康に対し、豊臣政権の豊かな経済力と進んだ築城技術を見せ付けることで、反抗することが得策ではないことを、知らしめようとしたのです。

次回は「中村一氏の駿府城天守」です。


加藤理文先生
加藤理文
公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭

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