理文先生のお城NEWS解説 第2回 中村一氏の駿府城天守を推理する

加藤理文先生の新連載「理文先生のお城NEWS解説」。全国のお城では日々発掘調査や研究が行われていますが、この連載ではお城のニュースについて、こういうところを注目すると面白い、というようなニュースのポイントや注目すべき点を加藤先生から教わります! 第2回目は、2018年10月に新発見のニュースで金箔瓦とともに話題となった駿府城(静岡県静岡市)の天守です。豊臣期の駿府城の天守はどのような天守だったのか、理文先生と一緒に推理してみましょう。



織田信長が統一のシンボルとして、天正4年(1576)に築城工事を開始し、同7年に完成を見た安土城天主こそが、史上初の五重天守でした。『信長公記』の記録から、天主は5重6階地下1階だったことが解ります。安土城に天主が完成したことによって、信長配下の武将の城に、次々と天守が建てられ、城のシンボルとして定着していきます。

特別な天守、五重天守

信長後継者となった秀吉も、信長を倣い天正13年(1585)大坂城に五重天守を築き上げることになります。豊臣政権下では、五重天守は特別な大大名にだけ建造が許されていたようで、秀吉の城以外では、弟・秀長の大和郡山城、五大老の毛利輝元の広島城、宇喜多秀家の岡山城、蒲生氏郷の会津若松城天守ぐらいしか見当たりません。慶長7年(1602)に落雷で焼失した前田利家が築いた金沢城天守も、五重天守だったようです。大坂城を入れても、全国で6城のみという特別な天守が五重天守でした。

豊臣大坂城天守復元南立面図、三浦正幸、中村泰朗
豊臣大坂城天守復元南立面図(監修:三浦正幸/復元:中村泰朗)

今回発見された駿府城は、天守台規模から、その特別な五重天守が想定されます。さらに、政権中枢の実力者以外に許可されなかった豊臣一門と同様の金箔瓦までもが使用されていたのです。まさに、特別な役割を持った天守だったと言っても過言ではありません。

駿府城天守台の平面規模

まずその姿かたちを考えて見たいと思います。関ヶ原合戦以前の天守であるため、望楼型と呼ばれる安土城に起源をもつ古式な形式が確実です。望楼型の基本構造は、入母屋造の大屋根に、物見と呼ばれる望楼を載せた建物のことになります。入母屋屋根とは、上部が逆V字型(切妻)になっていて、その四方に庇屋根を付けた屋根形状のことです。現存する彦根城、犬山城、丸岡城天守などがこの形式になります。

犬山城天守、丸岡城天守
犬山城天守                           丸岡城天守

今回検出された豊臣期の駿府城天守台は、南北37m×東西33mですが、礎石が見当たらないため上部数mが破壊されていることになります。現時点での石垣高は、地下埋設部分を含めると10~15mが想定されます。

関ヶ原合戦前の石垣で、最も高いのは岡山城本丸の約16mで、毛利輝元の広島城天守台が約12mになります。そう考えれば、破壊を受けた石垣の高さは、最大で見ても5m程ということになります。それによって天守台も狭まり、一階部分の平面は南北35m×東西30m程と見るのが妥当でしょう。

豊臣期駿府城天守北西隅角
豊臣期駿府城天守北西隅角

各地の豊臣期天守台の規模と構造

それでは、豊臣政権下に建てられた代表的天守の平面規模を見ておきたいと思います。秀吉が築いた大坂城天守台は、中井家の「本丸図」から、15間×14間(30m×28m)と解ります。伏見城は、諸国古城之図に18間×16間(36m×32m)と記されています。秀吉の弟の居城であった大和郡山城の天守台は、約18m×16m、120万石の太守・毛利輝元の広島城が、約24m×18m、加藤清正の熊本城が約26m×22mでした。

豊臣時代の代表的天守台の規模
豊臣時代の代表的天守台の規模(熊本、姫路は、慶長期)

仮に天守台いっぱいの建物とすれば、名古屋城の約37m×32mに匹敵する建物になってしまいます。当時の技術力では、それ程の巨大建築は建設できないはずです。おそらく北西隅部を利用し、そこに天守を設け、東と南に付属建物が接続する広島城天守のような形式だったのでしょう。豊臣領国の東端の要であり、徳川家康を牽制する重要な城です。

特別な五重天守を、政権主導で建てたのではないでしょうか。西国における広島城と同じ役割を、駿府城に持たせたのです。後に、隠居城として家康が建てた天守が約34mでした。同じ場所に建てる以上、中村天守を凌駕しなければ、幕府の威信は保てません。このことからも、その高さは広島城天守並みの25~30mと思われるのです。

あれ程巨大な天守台に、どう配置していたのかを考えて見たいと思います。大坂城天守は、天守台の北側から東側にかけて幅3間の空白地を設け、その内側に高さ5尺の石垣を築き、その上に東西12間×南北11間の天守一階を載せ、東南に長さ3間の付櫓を従えていました。

広島城は、高さ12mで東西12間×南北9間の天守台いっぱいに一階を載せ、東に長さ11間×幅5間の渡櫓を挟んで5間×7間の三重東小天守、南には長さ8間×幅6間の渡櫓を挟んで7間半×7間の三重の南小天守が連結する姿でした。

秀吉が大坂城を築いた天正11年には、高石垣上にあれ程の高層建築を載せるまでの技術が未成熟であったため、奥御殿側でも石垣は5m程だったのです。そのわずか6年後には、高さ10mを越える石垣の天端いっぱいに、25mを越える高層建築を載せるまでに技術が発展したのです。

焼失前の広島城天守
焼失前の広島城天守の絵はがき(個人蔵)

駿府城天守を考える

それでは、大胆に駿府城天守の姿を予想してみましょう。まず、五重天守であるとすれば、ほぼ広島城天守と同じ12間×南北9間程度になります。100万石越えの五大老と同じと言うわけにもいきませんので、1間小さくし南北11間×東西9間と考えれば、東が6間、南が6間半空きます。南側には広島城に倣い、南北4間×東西5間の二重小天守を配し、その間を南北2間半×東西3間の渡櫓で接続します。東側は、南北4間×東西6間の付櫓台と考えました。東側と南側を土塀で囲めば、天守曲輪と言うことになります。盟友の浜松城主堀尾吉晴も、掛川城主山内一豊も、本丸より小さく小高い天守曲輪に天守を建てています。こうすれば、彼らと同じ天守曲輪のある城になります。

豊臣期駿府城の推定復元平面図
豊臣期駿府城の推定復元平面図

外観については、多くのヒントが残されています。まずは、同時期に築かれ戦前まで残っていた岡山城(1597年完成)と広島城(1598年完成)天守の姿です。両天守の壁は黒漆塗の下見板が張られ、軒先と鯱が金色に輝いていました。最上階には、共に格式を上げるための装飾的な華頭窓が採用されています。

焼失前の岡山城天守
焼失前の岡山城天守の絵はがき(個人蔵)

広島城天守最上階には、さらに重要な飾りの「廻縁」が設けられていましたが、不等辺の天守台を持つ岡山城には、設置が困難だったようであり、見られません。

もう一つ、重要な資料が嫡男・一忠が築いた米子城天守の存在です。規模こそ四重ではありますが、やはり下見板張りの外観で、当初は最上階に「廻縁」が設けられていたようです。破風については、千鳥破風と唐破風が見られるため、駿府城にも採用されていたと推定されます。

こうした特徴を重ね合わせると、まるで大坂城のような姿が想定されます。豊臣政権は、大坂城を模した天守を築き上げ、徳川に無言の圧力をかけたのでしょう。


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加藤理文先生
加藤理文
公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭

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