【続日本100名城・米子城編】 大石垣群と360度パノラマが待つ名城

米子城は、天守の石垣の量と美しさや本丸跡からの絶好の眺望など、魅力満載のお城。海から水路を引いた城下町も散策におすすめです。毎年10〜11月には「米子城フェスタ」が米子城と城下町一帯を会場にして開催され、クイズラリーやステージなどの催しが実施されているようです。今回は、「米子城フェスタ」で注目の米子城をご紹介します。(※2018年11月5日初回公開)



米子城、夕陽、本丸跡
夕陽に照らされる本丸跡。季節や時間によって異なる表情を楽しめる米子城

連続する大規模な石垣群にワクワクが抑えられない登城道

桝形虎口、米子城、高石垣、二の丸跡
二の丸跡に続く桝形虎口の内部。高石垣で囲まれ、広さは東西約25.4m、南北約22.7m

JR米子駅から駅前の目抜き通りを経て約1km、市街地にほど近いにも関わらず、突如堅牢な石垣で囲まれた桝形虎口(城の入口)が現れます。これは、二の丸跡に続く桝形虎口(城の入口)です。湊(みなと)山を利用した米子城へは、登城口入口から標高90mの本丸跡まで一直線。
鉄板の門があったことに由来する「鉄門跡」から、小天守とも呼ばれた「四重櫓台」、四層五重の天守が立っていた「天守台」まで、次から次へと大規模な石垣が待ち受け圧倒されっぱなしです。。

米子城、天守入口、鉄門、
天守入口を厳重に固める鉄張りの門(鉄門)が造られた

米子城、石垣、天守台、
さまざまな年代の石垣が見られる天守台。四層五重の天守閣が、四重櫓の小天守と並び立っていた

「四重櫓台」の石垣は、打込接という石の積み方でしたが途中から切込接という積み方に代わるという見事な石工の技を垣間見ることができます。「天守台」の石垣は打込接で、築城時の往時をしのぶ石垣跡が残っています。また、「鉄門跡」には矢穴の跡が残る「残念石」が足元にありますのでお見逃しなく。ここを見れば、米子城の建つ湊山のふもとが岩盤であり、湊山の岩を切り出して築城したことが分かります。

米子城、鉄門跡付近、矢穴、残念石
鉄門跡付近で見られる矢穴が多数残る残念石

石垣造りの米子城が築かれたのは戦国時代末期

米子城、吉川広家、三重天守
吉川広家が築いた三重天守が小天守に生かされたといわれている

室町時代に山名宗之が、現在の米子城が立つ湊山の向かいにある飯山(いいのやま)に城を築いたのが、米子城の原型。湊山に山上の要塞のような、石垣造りの米子城が築かれたのは、戦国時代末期とされています。米子城は、戦国時代は尼子氏が支配。毛利氏が山陰地方を平定すると、米子城は、吉川広家(きっかわわひろいえ)が城主となりました。築城は、天正19年(1591)から開始。三重天守(後の小天守)を築くものの、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍に属した吉川広家は岩国(山口県岩国市)へ転封しました。慶長7年(1602)に駿河(静岡県静岡市)から移ってきた中村一忠(かずただ)が完成した米子城に移りました。

米子城、天守台
四重五層の天守閣が立っていた天守台

さらにその後、加藤氏、池田氏など、城主が次々と交代。最後は、池田氏、家老荒尾氏らが城代となり、明治時代初期まで治めました。明治6年(1873)に米子城は売却され、取り壊されてしまいました。


日本海に中海、城下町を望む360度の大パノラマ

米子城、天守台、大山、城下町
天守台から城下町と名峰・大山を望む

とにかく石垣に圧倒される米子城ですが、本丸跡からの眺望も石垣に引けを取りません。中国地方を代表する名峰・大山(だいせん)、水路を生かした城下町、米子城を守るように広がる日本海と中海(なかうみ)。360度の大パノラマが広がる絶好の眺望です。

米子城、忘れ石、小天守
明治時代以後から置かれている小天守の「忘れ石」

天守台からは各郭に築かれた石垣も見ることができます。四重櫓台に目を移すと、端の方に大きな石があります。この四重櫓台石垣の角に置かれている石は、明治時代以後のいつの頃からか置かれており、「忘れ石」と呼ばれています。石などにも目を向けながら歩くと、登城中はなかなか気づかなかった石垣の姿を、角度を変えて楽しめます。また、天守台など見る場所や高さを変えることでもいろんな表情を見ることができます。ところで、こちらの天守跡の休憩所(天守東屋)には、「続日本100名城スタンプ」が設置されています。記念にチェックしてみては?

海からの水路を引いた城下町米子は歩くほど歴史を満喫できる

米子城、外堀、旧加茂川
外堀として使われていた「旧加茂川」沿いには白壁の建物が残る

本丸跡から一望できる城下町。元々は北前船の寄港地として栄えた漁師町(港町)でした。米子城は天守を中心に、中海から水を引き込んだ内掘と、外堀をめぐらしています。内堀と外堀の間には武家屋敷が配され、外堀の外側へと渡ると町人が住んでいた区画となります。

かつての外堀には、約200mの間に75の小橋がかけられていた「旧加茂川」や、9つの寺を防衛のために配したといわれる「寺町通り」など。当時の名残を見ることができます。また、昭和の香り漂う「本通り商店街」の中にも、江戸時代船の管理をする判屋を務めた「大寺屋 船越家」の建物が残っているなど、山陰屈指の「商人の町」として発展してきた米子の歴史が、今も城下町の随所に見られます。歩けば歩くほど歴史を満喫できる、そんな城下町です。

本通り商店街、大寺屋、船越家
本通り商店街の中に残る「大寺屋 船越家」は存在感大

寺町通り、軍事拠点、城下町
9つの寺が残る寺町通り。城下町の軍事拠点としての目的もあった

米子名物「鬼太郎列車」に乗って境台場(国指定史跡)も攻略!

ゲゲゲの鬼太郎、JR境港線者車両
「ゲゲゲの鬼太郎」デザインのJR境港線者車両(※車両デザインは順次入れ替え)

米子駅は別名が「ねずみ男駅」です。実は、米子駅から境港を結ぶJR境線には、境港出身の漫画家・水木しげるさんにちなんで漫画『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する妖怪で別名がつけられています。米子駅を出発し、博労町駅(コロポックル駅)、富士見町駅(ざしきわらし駅)、後藤駅(どろたぼう駅)など経て、終点の境港駅(鬼太郎駅)まで16駅。

鳥取藩台場、境台場跡
8カ所ある鳥取藩台場のうち最大規模であり重装備だった境台場跡

境港駅から徒歩約2km。鬼太郎ワールド全開の水木しげるロードを通り抜けて、境台場跡(国指定史跡)へ。ここは、砲台跡として国史跡の指定を受けた8カ所の鳥取藩台場の中の一つです。幕末の鳥取藩の方針により、藩内の重要港湾に急きょ台場が築造されました。約1年の短期間で構築され、今も当時の遺構が保たれています。地元では「お台場」と呼ばれ親しまれているほか、土塁に残る黒松林や300本以上の桜も植樹され、市民の憩いの場所となっています。

市街地近くにあるアクセスの良さ、石垣の量や質、そして本丸跡からの美しい眺望に城下町散策。楽しみ盛りだくさんの米子城へは、日本海の冬が本格化する前の気候がよい時期の訪問がおすすめです。

▼2018年11月10日(土)開催「米子城フェスタ」、11日(日)開催「米子城シンポジウム」に関しては、こちらの記事もチェック!

住所:鳥取県米子市久米町
時間:自由
料金:無料
アクセス:JR米子駅から「鉄門跡」方面登城口まで徒歩約15分(約1km)
※2018年12月28日まで、二の丸桝形虎口からの登城道は伐採工事中のため不通。二の丸桝形虎口近くの「鉄門跡」方面の登城口を利用する。

境台場跡
住所:鳥取県境港市花町
電話番号:0859-47-0121(境港市観光案内所)
時間:自由
料金:無料
アクセス:JR境港駅から徒歩約30分(約2km)

執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
奈良県出身。30代の城愛好家。国内旅行業務取扱管理者。出版社にて旅行雑誌『ノジュール』などを編集。退職し九州の城下町に移住。観光PRやガイドの傍ら、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。『地域人』(大正大学出版会)など。海外含め訪問城は500以上。知識ゼロで楽しめる城の情報発信を目指す。

※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています

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