2018/10/16
城:縄張から普請まで|加藤理文 織田信長の城・安土城 第11回 | 大手道と周囲の屋敷地
日本城郭協会理事 加藤理文先生による「城:縄張から普請まで」をテーマにした講座、安土城編。安土山の南面谷筋に設けられた「大手道(伝大手口道跡)」と呼ばれる通路。実はこの道が大手道であったとする記録は残されていないそうです。なぜ、城内一幅広で、最も長い直線のこのルートが記録されていないのでしょうか?
「城:縄張から普請まで|加藤理文」
現在「大手道(伝大手口道跡)」と呼ばれる通路は、安土山の南面谷筋に設けられた道である。発掘調査が実施される前は、幅約3mの細い階段道が、麓から曲がりながら山頂に向かっていた。この道は、当時の道ではなく、昭和5(1930)~6年にかけて整備された道になる。
平成元年(1989)から開始された発掘調査によって、この道の下からオリジナルの通路が検出された。通路は、幅約6~7mで両側に幅約1m強の側溝が付き、高さ3mの石塁に囲まれ、伝徳川邸まで約180mが直線で伸びる登城路と判明した。道は、ここから西へ90度折れ30mほどを水平に進み、そこから急斜面を九十九に登り、伝武井夕庵邸上で、百々橋口道とT字型に突き当り合流する。ここから先の状況ははっきりしないが、伝信忠邸内で分岐して尾根道へ接続する可能性が指摘されている。

整備された大手道(左が「伝羽柴邸」、三木が「伝前田邸」)
この道は、大手道と呼ばれているが、この道が大手道であったとする記録は残されていない。安土城最古で唯一の絵図である「近江国蒲生郡安土城古図」(国立国会図書館、摠見寺、早稲田大学図書館など5点が残されている)に、下街道(朝鮮人街道とも呼ばれる。徳川将軍家専用の上洛道でもあった。)と交差する場所に「大手」と書かれているために「伝大手口道」と総称されるようになったのであろう。そもそもこの絵図は、貞享4年(1687)信長の100回忌を機に製作されたと考えられるもので、「伝大手道」の右側に「家康公」と家康の屋敷地があったように記されるなど、内容については根拠のない伝承を書き入れた可能性が高い。
『信長公記』に記載されている唯一の道は、百々橋口から摠見寺を通り、黒金門へ入るルートで、家臣たちが正月参賀や会見などで使用する、接見のための正式な通路であったことが確実だ。従って、この道が往時の「大手道」ということになろう。宣教師ルイス・フロイスの記録にも、現在の大手道は登場してこない。ではなぜ、城内一幅広で、最も長い直線のこのルートが記録されていないのであろうか。それは、この道が「大手道」ではなかったからと考える以外に答えは見つからない。
では、この道はいったいいつから「大手道」と呼ばれるようになったのだろうか。前述のように貞享4年の時点で、下街道との交差点が大手と記載される。この下街道から安土城主要部へ続く最も近い道であったために「大手」と記載されたであろうことは想像に難くない。さらに、幕末の安政元年(1854)摠見寺が本堂など主要な建物を焼失し、その後伝徳川家康邸に仮本堂を建立、いつしかここが摠見寺となってしまう。そのため、現在の「大手道」が摠見寺への参拝道となり、さらに安土城主要部への最短ルードであったため正面ルートととなり、「大手口道」と呼ばれるようになったのではないだろうか。
『信長公記』やルイス・フロイスの記載から、安土城下の屋敷は、天正4年(1576)から9年頃にかけて、徐々に整備されていったことが判明する。上級家臣たちの諸邸宅が、安土山の山腹や山麓部に上部に向って重なり合うように建てられており、手柄に応じて相応の屋敷地が与えられていたとフロイスが記録したのは、天正9年(1581)のことで、この時点で山腹や山麓部に屋敷地が完成していたことになる。一門衆筆頭の信忠、次席の信雄に屋敷普請の指示を出したのが天正8年(1580)のことで、前年に主要部が完成を見、天主に信長が移り住んでいる。また、伊庭山へ鷹狩りに来た信長の鼻先へ、工事のため大石を引き下ろしていた丹羽氏勝の家臣が誤って落とし叱責されたのもこの年のことである。
このことから、大手道周辺の屋敷地の工事が、天正8年に開始され、9年にほぼ完成したと考えられよう。信忠、信雄、信孝、信包、信澄、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益という一門衆と旗頭(方面師団長)たちの屋敷地は、ここに構えられた可能性が高い。石垣に囲まれ櫓門を持った城のような屋敷地は、「手柄に応じた相応の屋敷地」というフロイスの記録を裏付けている。
大手道の規模は、幅が約6~7m、直線で約180mであった。城内の他の道とは全く異なる、幅広の直線道。これは、本来この道が、安土城主要部建設のための工事用資材運搬道だったからと考えれば、全てが氷解する。下街道に面し、もっとも主要部までの距離が短く、しかも緩斜面でもある。天正4年に「蛇石」を引き上げるために幅広で直線のルートを作ったのが最初で、以後主要部の石曳き道・工事用資材運搬道として使用され、主要部の完成を持って、上級屋敷地への往来として整備されたのである。事実、発掘調査によって直線部分は旧谷地形にあたり、ほぼ全面を造成土で埋め立てた後、石段・側溝が造られたことが判明している。主要部の工事がほぼ終了し、資材を上げる必要が無くなった時点で、通路としたのである。
しかし、この工事用資材運搬道は、ほぼ直線で伝本丸直下へと至るため、「屋敷地6」までで一旦通路を閉じ、「屋敷地7」を通り、正式なルートである百々橋口から黒金門へと続く主要道に接続させる必要が生じたのである。そのため、道は直線道から突如九十九折れの道へと変化せざるを得なかったと考えられる。この大手道沿いの左右には屋敷地が広がり、しかも道に面して櫓門を構え、石塁と土塀で仕切っていた。城内の通路に対し、櫓門を構えたり、石塁や土塀で仕切ったりすることは考えられず、この大手道が城内道ではなく、誰もが通行可能な往来であったためと推定される。「大手道」は、主要部西尾根に存在する摠見寺への参拝道として誰もが通行可能だったのであろう。安土城とは、黒鉄門より内部のことで、主郭外周路より内は、信長の許可無しでは、何人も足を踏み入れることのできない「閉じた空間」であった。


「伝羽柴邸」の櫓門跡 九十九に折れる大手道
この直線道の左右に広がる広大な屋敷地は、安土城に最も近い場所にあたる。従って、一門衆と旗頭(方面師団長)の屋敷地と考えるのが妥当である。築城当初から、安土城の普請に奔走した丹羽長秀と織田信澄については、すでに相応の屋敷地が与えられ完成していたと思われる。一門衆で残るのは、信忠、信雄、信孝、信包の4人、旗頭(方面師団長)は柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益の同じく4人であるが、天正4年7月15日付滝川一益宛黒印状に「一益が、運んできた屋敷用の門・櫓の材木を、安土の城の櫓用に使いたいので、櫓を作った優秀な大工五人と併せて使わせてほしい」と記されている。一益は、すでに屋敷地を与えられていたことになる。とすれば、残りは3人になる。大手道沿いの屋敷地は、左が4人分、右が3人分の計7屋敷と、できすぎのように一致を見る。
本能寺の変後の安土城炎上は主要部のみということが判明しており、これら大手道沿いの屋敷地はすべて焼け残っている。当然、信忠邸も火災を免れたことになる。天正10年(1582)の清州会議後に、信忠の嫡男・三法師秀信は、整備改修された「安土仮屋敷」へと入っている。その場合、父信忠の屋敷こそ、後継が入るに相応しい場所であった。大手道の左右に広がる屋敷地のどこかが嫡男・信忠の安土屋敷で、秀信が入った「安土仮屋敷」こそ、この地だったのである。

大手道 周辺 実測図( 実測図( 『安土 信長 の城と城下町 城下町 』2009 サンライズ サンライズ サンライズ 出版 より 転載、 転載、 加筆 )
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公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭









