2018/09/18
城:縄張から普請まで|加藤理文 織田信長の城・安土城 第10回 | 検出された二の丸東溜りの構造 2
日本城郭協会理事 加藤理文先生による「城:縄張から普請まで」をテーマにした講座、安土城編。安土城の伝二ノ丸と天主台に囲まれた空間は、「二の丸東溜り」と呼ばれています。今回は、「二の丸東溜り」で2000年に実施された発掘調査の結果と『信長公記』の記述から、そこにあった構築物について考察します。
「城:縄張から普請まで|加藤理文」
第9回で、二の丸東溜りの発掘調査成果についてまとめてみた。今回は、この発掘調査結果と矛盾をきたすことなく、ここにあった構築物を考えてみたい。ただし、第9回の発掘成果は、あくまでもトレンチ調査であって、本来なら二の丸東溜りの全面的な発掘調査実施後に結論を出すべきである。従って、あくまでも可能性であることをお断りしておきたい。
まず、二の丸東溜りが主要部の中でどのような位置にあるかを再確認しておきたい(第6回「『信長公記』に見る主要部と現状遺構」参照)。

発掘調査場所と本丸主要部平面図
『信長公記』には「摠見寺の毘沙門堂と舞台を見てから表門を入り、三の門の内、天主の下の白洲へ参上」とある。現状遺構に当てはめると「伝黒金門を入り、伝二の丸南虎口を入った天主下の白洲へ上がった」ことになろう。原文だと「おもての御門より三の御門の内、御殿主の下、御白州まで祇候仕り」となる。「三の御門を入った所で、天主の下にある御白洲へ行った」以外の解釈は出来ない。
門は、主要部に至るまで三門が確認されている。伝黒金門、伝二の丸南帯郭門、伝二の丸南虎口門で、『信長公記』では、伝黒金門を表門、伝二の丸南虎口門を三の門としていることから、伝二の丸南帯郭門が二の門ということになろう。すると、三の門(伝二の丸南虎口門)を入った場所に御白洲があったことになる。御白洲の場所は、建物跡が確認されていない二の丸東溜りか天主南下で伝本丸御殿の西側以外に該当する場所がないため、この2個所のどちらかということになる。
『信長公記』は、ここから見学ルートが2方向に分かれる。一つは「階段を上がり、座敷の中へ招き入れられ、御幸の御間を見学」、もう一つが「白洲から、南殿へ上がり、江雲寺御殿を見学」である。御白洲から階段を上がるのである。白洲を天主南下とすると、階段設置場所が見当たらない。とすれば、二の丸東溜りが白洲で、ここから高低差約4mを階段で上がる以外の答えは無いのである。
もう一点、ここから南殿あるいは本丸御殿に行くまでの間に、門があったとの記載は無いため、三の門から内側には門が無かったと思われる。あれば、門を入ってと記載されているはずである。従って、報告書で推定されている門3は、門以外の用途を考えなくてはならないことになる。
『信長公記』の記載は、時系列に沿っているので、二の丸東溜りが三の門(伝二の丸南虎口門)を入った場所の御白洲ということで問題は見当たらない。すると、ここにあるのは「階(きざはし)」ということになる。では、検出遺構が階段と成りうるかが最大の問題と言うことになろう。発掘調査によって、すでに柱の太さが判明している。大小はあるものの、概ね7寸角の柱と推定される。現代の通常の住宅に使用される柱材が3.5寸と半分の太さで、4寸角の柱は積雪地の住宅に用いられている。従って、7寸角なら、階段及び階段全体を覆う巨大な覆い屋の柱材として要件は十分満たしていることになる。
次に、南側2間分が床張り構造として階段の設置が可能かである。当然、扉を開けてすぐに階段が始まることは考えにくい。2間の張り床の踊り場は階段の前室の役目も果たし、むしろ階段説を補強する。出土遺物は、北端に集中しており、ここに棚等の設置が可能かであるが、階段は高さが4mであり、礎石4の位置でその高さは約2mと推定される。当然階段下のスペースが利用可能となる。さらに階段下なら土間であっても何ら問題はない。階段下であったからこそ土間としたことも考えられる。
側面の構造であるが、一部で建ったままの壁材(厚さ約30㎝)も確認されており、土壁構造であった可能性が高い。屋根は、瓦葺が否定されているため、杮葺もしくは檜皮葺ということになろう。西側列で壁材が確認されているため、西側に土壁があったことは確実な状況である。建物内部が土壁で仕切られることもあるが、土蔵以外では考えにくく、通常の建築と考えれば、建物は西列で完結していたと考えるのが妥当であろう。

二の丸東溜りの復元案
これらの検証から、十分『信長公記』にある「階段」の設置が可能な遺構と判断される。まず、礎石1と11が階段の最上部となり、二の丸入口との間に1間×1間(南北2.1m×東西2.4m)の踊り場が想定される。階段下部が礎石7と19であるため、階段の角度はおおよそ35度(現在の住宅の場合、30度~35度の勾配が最適とされている)となり、ほぼ理想的な勾配となる。階段を下りると2間×1間(南北4.2m×東西2.4m)の踊り場が設置されていた。その南側には1間×1間(南北2.1m×東西2.4m)の土間が想定される。
この建物の東西は土壁で、仕上げがされていないことから、少なくとも見える西側については土壁の上に板材を張った板張りと考えられる。入口扉は、南側踊り場の南面に半間の両開き戸を設置、建物の扉は両扉の合計長さが高さとなるのが通常であるため、高さは約2.4mとなる。最南面を開口し入口としていたか、あるいは礎石22~23が、階と覆い屋と主軸ずらし、天守台南面石垣と南側の南西隅2重櫓に軸をそろえているため、ここを壁とし、御白洲側となる21~22を開口していたことも想定される。
いずれにしても、土間入口に扉を設けていれば、どちらが開口していようと覆い屋があれば、さして問題にはならない。南側一間分の軸のずれは、天守台石垣と南側の櫓と通路との取り合いの関係によるずれと推定される。階段下部は、倉庫として利用されており、北側西面に片開きの戸が設置されていたと考えれば、検出遺構と矛盾無く解釈が可能である。
なお、東側の礎石列に沿って天主台に黒色の柱が焼けた痕が残されていたため、ここに斜めの柱があったとの説もあるが、石垣に押し当てて設置してある柱が焼けた場合、通常黒色ラインが残るのではなく、焼け残って柱部分のみ白く残るのではないだろうか。ここで見られた黒色ラインは、焼けた柱組みが東側に倒れ、石垣に寄り添って燃えたための事象と理解される。また、西側土壁は西側に倒れていたことも確認されているため、建物東側部分は東に、西側は西に分離して倒れたことになる。
通常の建物なら中央で分離することなく、同一方向に倒れるはずであるが、建物が階段と階段を覆う特殊な形態の建物であったためと、屋根が檜皮もしくは杮屋根のために起こった現象と理解される。上部(天主)からの落下物の影響を受け、屋根が燃え、東西の建物を繋いでいた梁が燃え、床張りでなかったため、強度が不足し左右に分離して倒れたのであろう。この事実も、この建物が床張りでなかったことを示す事例になろう。このように、発掘成果からは、ここにあった建物が階段と覆い屋ということを裏付けている。

「二の丸東溜り」復元案平面図
このように「二の丸東溜り」に「階」があったとすれば、『信長公記』の記載にある2方向の見学ルートも可能となり、『信長公記』通りの往来も可能となる。「階段を上がり、座敷の中へ招き入れられ、御幸の御間を見学」したと記載されている以上、必ず主要部のどこかに「階」が存在していたはずである。現時点で、その場所を考えるなら、「二の丸東溜り」とするのが最も妥当であろう。

現状遺構にあてはめた「階」の位置
▶「城:縄張りから普請まで」その他の講座はこちら
公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭









