萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第7回 伊達政宗と上杉景勝ゆかりの城 米沢城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届け!今回は伊達政宗と上杉景勝ゆかりの米沢城です。

米沢城、本丸、内堀、土塁
米沢城は、米沢市街地のほぼ中心に位置する。本丸を囲む内堀のほか、土塁がわずかに残っている

上杉博物館から上杉神社、そして上杉伯爵邸へ

米沢ゆかりの人物といえば、伊達政宗と上杉景勝でしょう。天正19(1591)年までの43年間は伊達氏が米沢を統治し、政宗も米沢で生まれ24歳までを過ごしました。政宗の後には蒲生氏郷を経て、慶長2(1597)年に景勝が会津120万石で入封。上杉領の要となる米沢城には家老の直江兼続が城代として入り、大規模な治水工事や米沢城の構築を行いました。上杉氏は関ヶ原合戦後に出羽米沢30万石に大減封されたものの、米沢城を居城として明治維新までこの地を治めています。

現在の米沢城には、本丸とそれを囲む土塁や堀程度しか残っておらず、あまり城らしい雰囲気は感じられないかもしれません。しかし、江戸中期に描かれた『出羽国米沢城絵図』と照らし合わせしながら歩くと、かつての城の構造をたどることができます。散策の前には米沢市上杉博物館を訪れ、デジタル化された『出羽国米沢城絵図』を見ておくのがおすすめです。

米沢城は平城で、本丸・二の丸・三の丸を同心円状に配置。曲輪が石垣ではなく土塁に囲まれているのが特徴です。伊達氏時代は本丸だけの単郭構造だったようで、上杉氏時代に拡張されたと考えられています。松岬公園となっている広大な本丸の6割を占めるのが、上杉神社です。朱塗りの菱門橋がかかる本丸南側に建つのは、昭和に再建された春日神社。上杉家は古くから春日社を守り神としており、会津から米沢への転封の際もともに移されたのです。藩の財政が逼迫した江戸時代、10代藩主の上杉鷹山が再建を願い誓詞奉納したことでも知られます。

二の丸には、国登録有形文化財に登録されている上杉伯爵亭(米沢市上杉記念館)が建っています。上杉家14代茂憲の本宅で、明治29(1896)年の建造時には敷地約5,000坪、建坪530坪もある大邸宅でした。大正8(1919)年の大火で焼失しましたが、大正14(1925)年に再建。現在は料亭になっていて、米沢牛のしゃぶしゃぶやステーキなどのほか、郷土料理が味わえます。

上杉伯爵亭、米沢城、二の丸、庭園、国登録有形文化財
上杉伯爵亭は、上杉家14代茂憲伯爵邸として米沢城二の丸に建てられた。庭園は東京浜離宮の庭園を参考に造園されている。平成9年に国登録有形文化財となった

発掘された、政宗生誕の館山城とは

三の丸には上級・中級家臣の屋敷が並び、その東に町人地が置かれていました。市街地に、江戸情緒を感じさせる町並みが断片的ながら残存しています。路地で出合える江戸時代の名残が、門東町3丁目に整備された「武者道」。下級武士たち専用の通用路で、帯刀し身なりを整えて出かけなければならない武士たちがその手間を省くためにつくった、帯刀せずに歩ける専用の道でした。

発掘調査などの成果により平成28年3月に国指定史跡となったのが、近隣の館山城です。伊達氏時代にはかなり広大な城館であったことが解明しつつあり、これまで米沢城とされてきた政宗の生誕地が館山城であることもほぼ確実となりました。

山上の山城(要害)は、かつて礫で埋め尽くされていましたが、その下から石垣や枡形虎口が出現。川原石は石垣の栗石で、築石は別の場所に運ばれ、栗石だけが散乱していました。石垣の加工や積み方の特徴、埋め立てられた遺構の存在から、政宗が去った後に上杉氏が手を入れて改変した痕跡と推察されます。これまで上杉氏が館山城の普請を行った記録はなく伊達氏の城とされてきましたが、どうやら関ヶ原合戦後の不穏な情勢下で、景勝が強化していたようです。米沢の歴史を紐解く新たな発見として、注目です。

館山城、石垣、慶長期、
館山城の残存する石垣は慶長期のものと推定され、伊達氏時代の城を上杉氏が改変したとみられる

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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