2023/08/10
萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第68回 中津城 黒田孝高が築いた「日本三大水城」のひとつ
城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。68回目の今回は、「日本三大水城」のひとつに数えられ、黒田孝高(官兵衛)が築城して細川忠興が改修した中津城(大分県中津市)です。黒田時代と細川時代に普請されたものが左右に並んでいる石垣など、見どころを紹介します。
昭和39年(1964)に建造された模擬天守
秀吉の戦略的な拠点のひとつ?
中津城の大きな特徴は、河川を取り込んだ水城であること。福岡県との県境となる山国川の河口付近にあり、北は海、西は川に面しています。豊前は周防灘に面し、古くから大宰府と畿内を結ぶ要衝でした。中津平野は小倉に連絡し、また筑後川水運の起点である日田などに通じる場所にあります。
中津城は、中津川を背に本丸を置き、その東側に二の丸、南側に三の丸が置く構造です。二の丸と三の丸を囲む内堀のほか、東側は二重、南側は三重の堀がめぐっていました。外堀を囲んでいた土塁は「おかこい山」と呼ばれ、自性寺(じしょうじ)境内にその一部がよく残っています。幕末の絵図を見ると、三の丸の南側に上級武家屋敷、二の丸の東側に町屋(町人地)が置かれ、それらを囲むように下級武士の組屋敷が、その外側に寺町が置かれていたようです。
築城したのは、九州を平定した豊臣秀吉に豊前6郡を与えられた黒田孝高です。河川を味方にした立地や金箔瓦の出土などから、秀吉の戦略的な城のひとつだったとも考えられます。関ヶ原の戦いの後は細川忠興の三男・忠利が城主となり、忠利が家督を相続すると、隠居した忠興が中津城に移りました。享保2年(1717)に奥平昌成が入ると、明治維新まで奥平氏が中津城主を務めています。
中津川に面した立地
右が黒田時代、左が細川時代の石垣
細川時代に大改変されたため、黒田時代の姿ははっきりとはわかっていません。しかし調査の成果などから、ほぼ黒田時代の城を踏襲して拡張・改変したと考えられています。解体修理された本丸南側の石垣の事例などから、黒田時代の石垣は現在より低く、細川時代に継ぎ足しされたと推定。城下町の町割りも黒田時代にある程度形成されていたようで、細川時代に整備・拡張し、奥平時代もそれを引き継いで城下町を完成させたとみられます。
細川時代の石垣の継ぎ足しがよくわかるのが、模擬天守が建つ本丸北東隅付近の石垣です。本丸北面の石垣には「y」字のように継ぎ足しを示す斜めの目地が通っており、石材の種類や大きさ、積み方なども異なることから、右側は黒田時代、左側は細川時代の石垣と思われます。
黒田時代の石垣の特徴は、四角く加工された神籠石(こうごいし)が転用されていること。7世紀に築かれた唐原山(とうばるさん)城(福岡県上毛町)から運ばれたとみられています。
本丸北東隅付近の石垣
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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。