逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第18回【真田信繁(幸村)】父と歩み、豊臣に尽くした「日本一の兵」

「逸話とゆかりの城で知る!戦国武将」第18回は、日本一の兵・真田信繁(幸村)に迫ります。古くは講談、現代ではゲームなどの創作物により「幸村」としてお馴染み。戦国武将に関する人気投票ではいつも上位にランクインする信繁ですが、史実ではどんな人物だったのでしょうか。

真田幸村
真田丸の跡地、三光神社に立つ真田幸村の像。奥に見えるのは大坂城へ通じるとされる抜け穴

真田信繁(幸村)

策略家の家系に生まれ、父や主家から多くを学ぶ

ゲームやドラマの主人公として有名な真田幸村。しかしその前半生については諸説あり、はっきりとはわかっていません。「幸村」という名前も、実は本名ではありません。彼の名前は真田信繁(のぶしげ)。真田昌幸(まさゆき)の次男として永禄10年(1567)に誕生したとされています。信繁の祖父にあたる幸隆(ゆきたか)が礎を築いた真田の一族は、武田家に仕え、知略をもって活躍し信頼を得ました。

ところが天正10年(1582)、武田家が滅亡。主家を失った真田家は生き残りのため、織田、北条、上杉、徳川と仕える相手を変えていきました。しかし徳川家康からは、領地である沼田を北条に渡すよう命令されます。昌幸は徳川と手を切り、再び上杉に属しました。このとき、信繁は上杉へ人質として送られています。天正13年(1585)のことです。

直後に発生した第一次上田合戦後、昌幸は豊臣に属することに決めました。信繁は上杉から呼び戻され、改めて人質として豊臣秀吉の下へ送られます。秀吉からはたいそう気に入られていたようで、文禄3年(1594)には左衛門佐(さえもんのすけ)に任官され、豊臣の姓を与えられています。大名の次男としては異例のことでした。またこの頃、秀吉の腹心・大谷吉継の娘と結婚もしています。このように信繁は、豊臣と深い縁で結びついていました。

秀吉の死から2年後の慶長5年(1600)、会津征伐が起こります。上杉を攻める徳川軍と合流すべく、昌幸と信繁は上田を出発。通過点である犬伏に滞在中の7月21日、昌幸は石田三成からの密書を受け取ります。「家康の留守をついて挙兵するので参加してほしい」というのです。家康の嫡男である秀忠の陣にいた信繁の兄・信之も呼び寄せられ、親子3人での話し合いが行われました。

前述のとおり、信繁の妻は三成の盟友・大谷吉継の娘です。しかし信之の妻は家康の重臣・本多忠勝の娘でした。激論の末、昌幸と信繁は西軍(豊臣)、信之は東軍(徳川)につくことに決定。「どちらが勝っても真田家は存続する」と踏んだこともあるでしょう。こうして親子・兄弟は敵対することとなりました。有名な「犬伏の別れ」です。

真田幸村、犬伏新町薬師堂
現在の栃木県佐野市にある犬伏新町薬師堂。ここで昌幸・信之・信繁は密議を行ったとされる

昌幸と信繁は上田城(長野県)に戻り、関ヶ原へ向かう秀忠軍を迎え撃ちます。城から打って出ては白兵戦を行い、深追いせずに退くという戦法を繰り返した真田軍。後を追った秀忠軍が城下に引きつけられたところで、信繁率いる城兵が一斉攻撃を仕掛けました。翻弄された末に撤退した秀忠は関ヶ原本戦に遅刻し、面目を潰されます。

真田軍の作戦は成功したものの、関ヶ原本戦では西軍が敗北。昌幸と信繁は家康から死罪を命じられますが、信之とその義父・本多忠勝の助命嘆願により命を救われました。

真田父子はその後、高野山へ蟄居(ちっきょ)。のちに九度山に移ります。妻子・家臣とともに20人以上での貧乏暮らしだったそうですが、川遊びや連歌を楽しんでいたらしく、荒んだ話はほとんど伝わっていません。

慶長16年(1611)、昌幸は九度山で病死。その後も信繁の九度山生活は続きました。

真田幸村、善名称院
現在の和歌山県九度山町にある、善名称院の門。昌幸・信繁が蟄居した屋敷跡に建てられた寺で、真田庵とも呼ばれている。よく見ると瓦にも真田家の家紋・六文銭が

「日本一の兵」と称えられた大坂の陣での活躍

慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件が起こります。豊臣秀頼が建設中の方広寺の鐘に刻まれた銘文「国家安康」「君臣豊楽」に対し、家康が「徳川を呪い、豊臣の繁栄を願うものだ」と難癖をつけたのです。これを口実に徳川は豊臣を追い詰めようとしますが、豊臣は徹底抗戦を決意。大坂冬の陣が始まります。

秀頼は各地の浪人たちへ使者を送り、大坂城(大阪府)に集めます。信繁もその一人でした。信繁は城外出撃を提唱するも認められず、籠城戦が決定。そこで信繁は、大坂城の唯一の弱点であった南側に防衛拠点を築きました。これが、2016年の大河ドラマのタイトルにもなった「真田丸」です。

大坂城は天下の堅城。北は淀川と大和川、西は東横堀、東は大和川と平野川に守られていました。しかし南は空堀が構えられていたものの地続きです。東軍が攻めてくるならここからであることが明白でした。信繁は、合戦の最前線となるそこに巨大な出城を建築したのです。

大坂城の堀を背に、三方を空堀で囲み、三重の柵を設置していたと言われる真田丸。慶長19年(1614)11月、いよいよ大坂冬の陣が始まると、押し寄せてきた前田利常(まえだとしつね)や井伊直孝(いいなおたか)の隊を苦戦させます。柵に阻まれて進めなくなっていたところに、横から集中砲火を浴びせました。総攻撃が始まっても、信繁はギリギリまで引き寄せてから攻撃し、東軍に大損害を与えます。鴫野・今福など、大坂城周辺のほかの砦では東軍が勝利しましたが、真田丸があったおかげで城内までは攻め込めませんでした。

真田幸村、真田丸
真田丸跡地の一部は現在、大阪明星学園の敷地となっている。校庭の前には顕彰碑が建つ

真田丸の戦いは善戦しましたが、東軍が撃ち込み続けた砲撃に大坂城内の人々は怯え、豊臣は講和に応じます。その条件として、大坂城を囲む堀は埋め立てられ、大坂城は丸裸に。当然、真田丸も取り壊されてしまいました。

講和を結んだものの、豊臣を滅ぼすという家康の意志は変わりません。慶長20年(1615)5月、大坂夏の陣が始まります。このとき信繁は茶臼山に布陣。冬の陣で家康が陣を敷いた場所でした。信繁はここを拠点に、家康の本陣へ3度も突撃しています。馬印を引き倒し、一時は切腹を考えさせるほど家康を追い詰めました。秀忠も敗走を図り、何度も部下に止められたといいます。徳川軍に属していた島津氏は、信繁のこの活躍をうけ「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称賛しました。

しかしあと一歩のところで大将首には届かず、5月7日、信繁は休息をとっていたところを討ち取られてしまいます。同日、秀頼と淀殿も自刃。大坂城は炎に包まれ、豊臣の滅亡が確定しました。

真田幸村、安居神社
信繁最期の地と伝わる安居神社(大阪市天王寺区)には、「戦死跡之碑」と銅像が建つ

しかし信繁には、大坂の陣後の生存説も伝わっています。たとえば「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島へ」というわらべ唄。「信繁が秀頼を連れて鹿児島へ逃亡した」という内容で、大坂夏の陣直後から京で流行していました。実際に鹿児島県には、信繁と秀頼のものとされる墓が存在します。また、そこから娘の嫁ぎ先である秋田へ逃げて生涯を終えたという説もあり、大館市の一心院には信繁と嫡男・大助のものとされる墓が残っています。

いずれも信憑性は薄く、信繁も秀頼も大阪で没したと考えられますが、彼らを英雄視した人々の「生きていてほしかった」という願望がよくわかります。

さまざまな逸話が生まれ、現代に至るまで、英雄的なキャラクターで創作物の題材とされてきた真田信繁(幸村)。こうして見ると、彼の人生そのものが、まるで1つの物語のようです。

真田信繁と大坂の陣関連史跡

真田幸村、大坂の陣関連史跡

【守った城】大坂城(大阪府大坂市中央区)
天正11年(1583)に豊臣秀吉が築城。その息子・秀頼の代で起きた大坂の陣(1614〜5)で焼け落ち、豊臣氏終焉の地となった。夏の陣から5年後に将軍直轄とされ再建が始まり、豊臣時代の城は徹底的に破壊・埋め立てられた。現在の縄張は徳川秀忠によるものであり、大坂の陣以前とは異なるが、豊臣時代の石垣などの遺構が発掘されている。また秀頼や淀殿が自刃したとされる場所には、碑と案内板が建てられている。

真田幸村、山里丸
秀頼と母・淀殿が自刃したと伝わる山里丸。碑は平成9年(1997)に建てられた

【支城】真田丸(大阪府大阪市天王寺区)
真田丸があったとされるエリアに遺構は残っていないが、跡地とされる場所の神社や寺院には記念碑や銅像などが建てられている。真田丸の形状は半円形の「丸馬出」というのが通説だった。しかし近年、実は四角形に近かったのではないかという説も浮上。大きさについても諸説あり、現在も研究が進められている。長辺が200mを超える説が多く、かなり大規模であったことがわかる。

真田幸村、心眼寺
真田丸の跡地の一部に建つ心眼寺。文禄年間中(1592〜96)に創建されたが、大坂冬の陣後に取り壊された。元和8年(1622)に真田家の子孫により信繁と子・大助の供養のため再建

【陣城】茶臼山(大阪府大阪市天王寺区)
現在の天王寺公園内にある。大阪冬の陣で徳川家康が、翌年の夏の陣では真田信繁が陣を構えた。前方後円墳と考えられていたが、昭和61年(1986)の発掘作業では古墳時代の遺構は確認されず、代わりに家康の本陣跡の建物や堀割などが発見された。

真田幸村、茶臼山
山と言っても標高26mで、階段を登ればすぐ頂上。布陣図の看板などがある

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。戦国時代の出来事を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)や、全国各地に存在する模擬天守・天守風建物を紹介する『あやしい天守閣 ベスト100城+α』(イカロス出版)、『ざんねんなお城』(イカロス出版)が好評発売中!

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