お城の現場より〜発掘・復元最前線 第41回【八幡山城】整備によって鮮明となった出丸・西ノ丸の特徴

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第41回は、豊臣秀吉の甥・秀次の居城であった八幡山城(滋賀県近江八幡市)。近年、山上の整備によって石垣の詳細な状況が分かるようになりました。出土品や特徴的な石垣の造りから判明しつつある近年の発掘調査の成果を近江八幡市総合政策部文化振興課の坂田孝彦さんがご紹介します。

山上の主郭部と山麓の秀次居館を調査

八幡山(はちまんやま)城(滋賀県)は、小牧・長久手の戦いの翌年、徳川家康とまだ臨戦態勢下にあった天正13年(1585)に羽柴(豊臣)秀吉の甥である秀次の居城として築城された。これは家康を警戒した近江の要としての意味を持ち、城代の田中吉政を含む5宿老の本城であった。家康が秀吉に臣従後、秀次は転封となり京極高次が城主となるが、文禄4年(1595)に廃城となった。

八幡山城
南側から撮影された八幡山城遠景

八幡山城は、比高差約180mある鶴翼山(八幡山)に築かれ、大きく頂上付近の主郭部分と山麓の居館部分に分かれている。山上はかなりの急傾斜上に築かれ、本丸を頂上中心に置き、それぞれ三方に延びる尾根に沿って郭が配置されている。東南の尾根には二ノ丸及びその下段の郭、北には北ノ丸及び下段の帯郭、西南には西ノ丸と少し離れた出丸が配置されている。さらに西南、東南尾根には急傾斜を経て山麓に向かって郭が認められるが、北尾根は北ノ丸下で堀切によって切られる。

八幡山城
八幡山城の全体図。山上の主郭部分と山麓の居館部分に分かれる

山麓には、居館が配置される。最高位置の伝秀次館から直線の道を麓に向かって敷き、その両側に雛壇状の郭を配置。発掘調査で六器などの寺院関連の遺物も出土していることから中世寺院があったと考えられている。

八幡山城、伝秀次館の石垣
山麓の伝秀次館の石垣

山上と山麓はそれぞれ特徴が違う。山上の主郭部から出土する瓦は、山麓のものより古式のコビキAでの調整が認められ金箔瓦がない。しかし、隅に矢穴のある石を使用してやや反りを持つ、全体的に小ぶりの石を積み上げて築かれた打込はぎの石垣や、内枡形で何重にも折れた虎口、郭配置などの特徴は、山麓より新しい様相といえる。山麓の秀次館跡からは、新様式のコビキBの瓦に金箔が置かれているが、隅の反りがない石垣の積み方や郭配置は山上よりも古い様相だ。なぜこのような特徴の違いがあるのか様々な意見があるが、今後の調査研究でさらに明らかになることが期待される。

八幡山城、伝秀次館の石垣、瓦
山麓の秀次館跡から出土したコビキBの瓦

城の整備によって石垣が見える化

近年、地元の有志で結成される「八幡山の景観を良くする会」によって「石垣見える化プロジェクト」が実施され、周囲から木々によって見えなかった山上の郭のうち、西ノ丸と出丸が城下から見事に見えるようになった。

八幡山城、石垣見える化プロジェクト
「石垣見える化プロジェクト」によって城下からも石垣がはっきり確認できるようになった

石垣の状況も詳細がわかるようになったため、改めて再確認できる事項があった。まず西ノ丸では、本丸や二ノ丸で見られるような整然とした石材を積んだ石垣ではなく、かなり粗目の石材を利用して、打込はぎで約6mの高さまで積み上げていることが鮮明となった。その中には、山麓の秀次館石垣のように明らかにやや大振りの石を積んで、石垣の威容を保持するものもある。また、その高石垣の下には、さらに一部帯郭状の石垣が初めて確認できた。これは、二ノ丸や、北ノ丸と同じ郭の構成であったことになる。

八幡山城、西ノ丸、石垣
西ノ丸の石垣。粗目の石材が使用されている

次に出丸だ。ここも西ノ丸と同様にかなり粗目の石材を利用して、打込剝で約4mの高さまで積み上げていることが鮮明となった。そのなかには石垣の計画変更を思わせる部分もある。

八幡山城、出丸、石垣
出丸の石垣。西ノ丸同様、粗目の石材を使用

出丸の石垣の大きな特徴は南側の隅部が直角ではなく丸みをおびていることだ。この時期の石垣ではあまり例のない遺構だが、その理由については不明で今後の課題である。

八幡山城、出丸、隅部
出丸の隅部。直角ではなく丸みをおびており、この時期の石垣としてはめずらしい

なお、今回紹介した山上部分だけではなく、山麓の居館部分は「一般社団法人秀次家臣団屋敷跡竹林を守る会」が管理しながら、竹林を整備して伝秀次館の石垣が見えるよう汗を流している。

八幡山城(滋賀県近江八幡市)
本能寺の変から約3年後の天正13年(1585)、近江の要として羽柴(豊臣)秀吉が甥の秀次の居城とするために築いた。城代は秀次の宿老・田中吉政が務め、城下町の整備などに力を入れた。天正18年(1590)に秀次が尾張の清洲城に移ると京極高次が城主となるが、秀次が切腹した文禄4年(1595)に廃城となった。

執筆/坂田孝彦(近江八幡市総合政策部文化振興課
写真提供/近江八幡市

関連書籍・商品など