お城の現場より〜発掘・復元最前線 第40回【美濃金山城】主郭の調査で文禄・慶長年間の石垣を検出!

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第40回は、織田信長が美濃を攻略した際、重臣の森可成に与えた美濃金山城(岐阜県可児市)。市やボランティア団体の保護活動もあり、現在も良好な状態で石垣や瓦、建物礎石が残ります。今回は平成29年(2017)~令和元年(2019)の主郭を中心とした調査について、可児市文化スポーツ部文化財課の村上慶介さんがご紹介します。

標高約276mの古城山に築かれた天然の要害

美濃金山城、復元イラスト
美濃金山城の復元イラスト。主郭には多層櫓の天守があったと推定されている
(作画/香川元太郎)

美濃金山城は、天文6年(1537)に斎藤大納言正義(妙春)により、「烏峰城」として築城されたと伝わる。永禄8年(1565)には織田信長の家臣、森可成が入城し、「金山城」と改称された。その後、長可、乱丸、忠政と森家が城主を担うが、慶長5年(1600)に忠政が信州川中島へ転封したことに伴い、美濃金山城は犬山城主、石川貞清(光吉)領となった。関ヶ原の合戦の後の慶長6年(1601)頃に、新たに犬山城主となった小笠原吉次によって城が破却されたと伝わる。

美濃金山城跡、木曽川
西の空から見た美濃金山城跡と木曽川

美濃金山城跡は、岐阜県可児市兼山にある標高約276mの古城山に立地し、頂上から比高差170mほど下に広がる城下町や木曽川中流域一帯を一望できる。城下町は東西を流れる木曽川の流路に沿って帯状に展開し、河川流通の要衝として発展した。城や城下町へと通じる道はいずれも隘路であり、北の木曽川と、城が立地する古城山は、天然の要害といえるだろう。全方向からの攻めを意識し、守りに徹した曲輪配置、天険な古城山の自然岩盤を活用した石垣、城の破却から時が止まったかのように悠然と残る美濃金山城跡は、中世山城の特徴を色濃く残しつつ、戦乱の時代を今に伝えてくれている。

美濃金山城と城下町の復元イラスト
美濃金山城と城下町の復元イラスト。城下町は木曽川と城のある古城山に挟まれている
(作画/香川元太郎)

美濃金山城跡初めての発掘調査は、今からおよそ80年前の昭和10年代に行われたそうだ。次に昭和41年(1966)に主郭を中心に発掘調査が行われたのち、平成18~22年度(第1~5次調査)には各曲輪の内容、城跡の範囲確認調査を実施した。それらの成果をもとに、平成25年(2013)に国史跡に指定された。

美濃金山城、航空レーザ測量による美濃金山城跡地形起伏図
「航空レーザ測量による美濃金山城跡地形起伏図(平成30年度撮影)」に城の区画を記載

近年は『国史跡美濃金山城跡 整備基本計画』に基づき調査を進めている。平成29~令和元年度(第6~9次調査)にかけては、滋賀県立大学考古学研究室とともに主郭を中心に調査を進めた。今回はその成果の一部を紹介しよう。

美濃金山城、主郭調査区位置図
主郭調査区位置図(平成29~令和元年度)※1

天守想定部分から文禄・慶長年間の石垣を確認

美濃金山城、発掘調査
Ⅰ区東側整地面検出状況(西より)※2

Ⅰ区は天守想定部分の構造・規模の解明を目的とし調査した。その結果、Ⅰ区の東西、そして北面の内側に文禄・慶長年間のものと考えられる石垣を確認した。しかし、検出面では基礎となる礎石や柱穴は見つからなかった。

Ⅱ区では、天守想定部分の出入口にあたると推定し追加調査した結果、石敷遺構や礎石列を発見した。両区からは、かわらけや鉄釉大皿(大窯第4段階)、天目茶碗(大窯第3段階後半)など生活用器が見つかったほか、平瓦など瓦片が見つかった。これらの発見から、天守想定部分には、森忠政が治めていた時期に半地下式で瓦葺きの建物があったと考えられる。

美濃金山城、発掘調査
Ⅱ区南側石敷遺構検出および遺物出土状況(南東より)※3

虎口部分の遺構の下から別時代の礎石を検出

美濃金山城、発掘調査
Ⅲ区完掘状況(南西より)※4

Ⅲ区では、虎口の構造や時期変遷を辿るために調査を実施し、その結果、岩盤部分、整地層、礎石を検出した。さらに整地層の下から別の礎石を検出したことから虎口内部は二時期の変遷を辿ることがわかった。また、Ⅲ区南側の石組みは一部を除き、ほぼ後世の積み直しであることを確認した。

出土遺物として、かわらけ、白磁(16世紀)、灰釉系陶器(生田2号窯式)、擂鉢(大窯第2~3段階)などのかけらが見つかっている。

美濃金山城、発掘調査
Ⅳ区完掘状況(南西より)※5

Ⅳ区(虎口想定部分)では、堆積土に後世の撹乱が入り、造成も弱いことから、虎口ではなかったことが判明した。現在露頭している石積みも撹乱層の上にあり、後世のものであると結論付けた。土中からは、青花(16世紀後半)やかわらけ、瀬戸黒茶碗、端反皿(大窯第1段階後半)などのかけら、現代遺物が出土している。

美濃金山城、発掘調査
Ⅴ区被熱遺構検出状況(北西より)※6

Ⅴ区(庭園想定部分)では、北側から被熱遺構が検出され、その上に整地層面があることから二時期の変遷があることが明らかになった。南側は検出した礎石の上に盛土されていることがわかり、こちらも二時期の変遷があることが判明した。出土遺物として、かわらけ、灯明皿(大窯第3段階)、天目茶碗、黄瀬戸、茶入などのかけらや銭貨が出土している。

これらの調査成果の詳細は『美濃金山城跡主郭発掘調査報告書』に記載している。本市ホームページ上でも公開しているので、ぜひご覧いただきたい。

戦国山城ミュージアム、遺物
戦国山城ミュージアムで展示中の美濃金山城跡出土遺物

また、出土資料の一部は、麓の「戦国山城ミュージアム」で実際に見ることができる。

美濃金山城跡主郭、ベンチ
美濃金山城跡主郭の新設ベンチから可児市中心部を望む(提供/美濃金山城おまもりたい)
 
美濃金山城跡は、地域住民を中心としたボランティア団体「美濃金山城おまもりたい」による整備・維持活動が盛んだ。今年度は主郭・米蔵跡にベンチを設置することができた。晴れて空の澄んだ日に双眼鏡で覗くと、城跡からは岐阜城が見える。岐阜城主であった主君 織田信長の動向にくまなく目を配る森氏の姿が浮かぶようだ。

美濃金山城跡、整備完成予想図
美濃金山城跡の整備完成予想図 ※7

何年もの歳月をかけながら調査を繰り返し、その調査成果をもとに整備を着実に進めていくことが城跡の過去と現在、そして未来を結ぶ。今後の目標は、地域住民だけでなく、全世界のお城ファンにも絶えず愛される美濃金山城を次世代へつないでいくことだ。そんな美濃金山城をこれからもどうか見守ってほしい。皆様のご来城を心待ちにしている。

美濃金山城跡、美濃金山城おまもりたい
新しい隊員ジャケットを着た「美濃金山城おまもりたい」と可児市文化スポーツ部文化財課のスタッフ(提供/美濃金山城おまもりたい)

もっと美濃金山城について知りたい方は以下のサイトをご覧ください。
報告書掲載ページ▶https://www.city.kani.lg.jp/3568.htm
戦国山城ミュージアム▶https://www.city.kani.lg.jp/10017.htm
美濃金山城跡の登城用パンフレット▶https://www.city.kani.lg.jp/3585.htm

美濃金山城(みのかねやまじょう/岐阜県可児市)
斉藤道三と姻戚関係のあった斎藤正義が、天文6年(1537)に「烏峰城」として、古城山の山頂付近に築いた。その後、織田信長が美濃を攻略すると、家臣である森可成に与えられ、名も「金山(兼山)城」と改められる。その後は代々森家が城主となるが、慶長6年(1601)の関ヶ原の戦いの後に破城となった。現在も残る出丸の石垣は特に保存状態がよく、他にも門跡、枡形虎口、天守台、井戸なども見どころだ。

執筆/村上慶介(可児市文化スポーツ部文化財課)
写真提供/可児市、美濃金山城おまもりたい

出典/ ※1〜6は可児市・滋賀県立大学 2021『美濃金山城跡主郭発掘調査報告書』より
※1「図3 主郭調査区位置図」p.7より一部加筆
※2「図版3」p.76
※3「図版5」p.78より一部加筆
※4「図版6」p.79より一部加筆
※5「図版7」p.80より一部加筆
※6「図版8」p.81より一部加筆
※7可児市教育委員会 2019「第7節 完成予想図 (1)山頂部全体の整備の様子」『国史跡美濃金山城跡 整備基本計画』p.65

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