萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第46回 出石城・有子山城 戦国時代から江戸時代へ、改変が辿れる2つの城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。46回目の今回は、セットで続日本100名城に選定された出石城と有子山城(ともに兵庫県)です。戦国時代から江戸時代にかけての城の移り変わりがよくわかる、各城の構造や遺構の特徴を見ていきましょう。

出石城、有子山城
復元櫓の建つ場所が出石城跡。背後が有子山城

数段階に及ぶ、情勢を反映した城の変化がわかる

出石城有子山城がセットで続日本100名城に選定されているのは、戦国時代から江戸時代にかけての社会情勢を反映した、数段階に及ぶ城の改変が2城を通じてよくわかるからです。有子山城から出石城への移行には複雑な変遷があり、いずれの段階の遺構もよく残っています。

改変は、大きく4段階に分けられます。天正2年(1574)頃に但馬守護の山名祐豊が築いた「山名氏時代の有子山城」、天正8年(1580)に羽柴秀長の但馬侵攻によって落城した後、石垣を伴う城へと大改修された「羽柴時代の有子山城」、慶長9年(1604)に出石藩主となった「小出吉英による出石城」、その後の「改変された出石城」です。

有子山城は、羽柴秀長により但馬支配と山陰方面の前線基地として大改修されたと思われます。注目は、山上の城と山麓の居館が一体化した二元構造だったこと。江戸時代に入ると小出吉英が山麓の居館部を改修して曲輪を配置しますが、ここでも二元構造は継続していたらしく、出石城の築城後も引き続き有子山城は使われていたようです。出石城を挟み込む2本の巨大な竪堀は、この時期に増設したと思われます。

そしてその後は三の丸が構築され、元禄15年(1702)には松平忠周が藩主の居館を三の丸に移して対面所としました。大拡張され、防衛力の高い城へと大改修されています。その理由は定かではありませんが、一国一城令を受けて出石城を強化した可能性もあるのでしょう。

有子山城、城下町
有子山城から見渡す、出石の城下町

石垣の違いに注目、山城としての見ごたえも抜群

江戸時代に山城から平山城へ移行するのは全国的に共通する傾向ですが、それだけでなく、山城への織豊系の技術の導入、山上の詰城と山麓の居館という二元構造のあり方とその変化も読み解けるのが特徴といえます。有子山城と出石城を歩くことで、時代の移り変わりをたどれます。

その変遷は、一端を石垣から感じ取ることができます。隅角部の算木積みが未発達で鈍角な有子山城の石垣は、高さも4.5〜5メートル程度。これに対して出石城の稲荷曲輪では、石材が整えられた高さ約13メートルの見栄えのよい石垣になっています。

有子山城は壮大な山城の姿を連想でき、見ごたえ抜群です。井戸曲輪も見事です。石垣で固められた枡形虎口や主郭から階段状に並ぶ曲輪の石垣、主郭の石垣が城下に面した北面と西面だけ高いのも、織豊系の城のセオリーに基づくものでしょう。石垣づくりの城に改変されながらも、骨組みが限りなく中世の山城なのも大きな魅力です。

有子山城の石垣
有子山城の石垣

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。