2024/01/29
日本100名城・続日本100名城のお城 【日本100名城・水戸城編】渋沢栄一の主君・徳川慶喜が幼少期を過ごした地
2024年7月3日から発行予定の新紙幣で、1万円札に描かれる渋沢栄一。「近代日本経済の父」として知られる一方で、倒幕を企てるなど血気盛んな青年でした。そんな渋沢栄一が大きな影響を受け、仕えたのが15代将軍となる徳川慶喜です。徳川慶喜が育った水戸城(茨城県)周辺を散策しながら、幕末のうねりを感じてみてはいかがでしょうか。(2021年2月14日初掲)
2020年2月に復元された大手門
2020年2月4日に水戸城(茨城県水戸市)の大手門が完成しました。復元のきっかけは、茨城県坂東市の古刹で発見された水戸城の城門と伝わる扉。その扉が水戸市に寄贈されたことをきっかけに、復元に向けた機運が高まり、水戸市は5年かけて学術的な調査および検討を進めました。「一枚瓦城主」による寄付金も活用しながら、復元に至りました。
高さ約13m、伝統工法を用いて復元された大手門
この大手門が造られた江戸時代には、水戸徳川家の居城として威容を誇りました。
慶長14年(1609)、徳川家康の11男・徳川頼房が水戸に封じられると、三の丸や外堀の整備拡張を行い、二の丸に御殿を造営、あわせて「三階物見」とよばれる櫓を建設。三階物見は明和元年(1764)の火災で焼失し、再建された際に屋根を銅瓦葺きとし、天守らしく鯱を上げ「三階櫓(さんがいろ)」と呼ばれました。
水戸第三高等学校の前に三階櫓跡の案内板が立つ
三階櫓は、外観三重・内部五階となる大型の櫓で、石垣がない代わりに初重目の下部を海鼠(なまこ)壁でおおい、石垣の上に建っているかのような姿だったそう。昭和20年(1945)に戦災で焼失するまで水戸市のシンボルとして親しまれました。
佐竹義宣が改修した土造りの城
水戸城はもともと、石垣を備えていない城でした。平安時代末から鎌倉時代初期に馬場氏の手により建てられた館に由来し、後に江戸氏、そして佐竹氏を経て、徳川時代へと至ったのです。
二の丸と本丸をわける大堀切にはJR水郡線が通る
天正18年(1590)、豊臣政権下の大名となった佐竹義宣(さたけよしのぶ)が勢力を強めて、当時の水戸城主・江戸氏を滅ぼし、水戸城を積極的に改修しました。城の外郭の土塁と堀を修築し、本丸や二の丸、三の丸、下の丸のほか、城下町を整備しました。
土造りの城としての特徴を表すのが、本丸と二の丸の間にある大堀切です。現在はJR水郡線と県道に利用されており、タイミングが良ければ列車が走る姿を見ることができます。
樹齢約400年とされる水戸城跡の大シイ(水戸市指定記念物)
二の丸の三階櫓跡付近に立つシイの巨木は樹齢約400年とされており、佐竹義宣が水戸城を居城としていた時代には、すでにあったのかもしれません。
石田三成と親交があった佐竹義宣は、関ヶ原の戦いで態度をはっきりと表明しなかったため、戦後の慶長7年(1602)に秋田への移封を命じられます。秋田へ移ると、家臣団の刷新と久保田の町づくりを実施するとともに、久保田城(秋田県秋田市)を新築し、石垣を使わずに高い土造りの技術によって築きました。
唯一の現存建造物は意外なところに
水戸城は江戸時代に水戸徳川家の居城となり、昭和には太平洋戦争の被害も受けたため、佐竹氏の時代の遺構はほとんど残っていません。かろうじて、本丸跡に立つ水戸第一高等学校に、佐竹氏時代に建てられたと考えられる薬医門が残っています。
薬医門は見学できるようになっているが、学校の敷地のためマナーに注意
この薬医門は、扉を支えている本柱と、その後ろにある控柱で支えられています。屋根の中心の棟を、前の柱と後ろの柱の中間ではなく、少し前方にずらす形式。正面の軒が深く風格のある門構えとなっています。建築年代は、その様式から安土桃山時代末期と考えられています。
横から薬医門を見ると、屋根の棟の位置をずらした形式がよくわかる
この門が元々あった場所については、形式と規模そして風格からみて、本丸橋詰門だと考えられています。明治20年(1887)頃と昭和19年(1944)の2回、水戸市内で所在を変えて移築され、昭和56年(1981)に、水戸城本丸跡地である水戸第一高等学校敷地内に移築復元されました。
徳川慶喜や渋沢栄一らに影響を与えた水戸学
水戸第一高等学校をはじめとして、水戸城のまわりには幼稚園や小学校、中学校、高校が集まり、教育が盛んな場所であることも特徴的です。
JR水戸駅に立つ「水戸黄門 助さん格さん像」
学校にはさまれるように、2代水戸藩主・徳川光圀(水戸黄門)が『大日本史』の編纂事業を行った旧彰考館跡があります。現在は記念碑とともに「二の丸展示館」が設置され、城跡からの出土品や水戸城に関する資料などが公開されています。
二の丸展示館では、弘道館や偕楽園などの教育遺産に関する情報発信も行う
江戸時代後期には、9代藩主・徳川斉昭らが、天皇家を尊び、国全体で諸外国に立ち向かう「尊王攘夷」の考え方を示しました。藩を超えて国家的視野から様々な課題に対応する理念が広まり、明治維新に影響をおよぼします。
また、徳川斉昭は藩政改革の一環として藩校・弘道館を建てました。正庁(学校御殿)をはじめとして、文館、武館、医学館、天文台、孔子廟(こうしびょう)などが建設され、さらに馬場や調練場、矢場、砲術場なども整備した大規模な施設でした。医者を養成する医学館では、医学の教授のほか、種痘や製薬なども実施されていました。
15代将軍となった徳川慶喜は、徳川斉昭の子として江戸で生まれますが、斉昭の教育方針によって幼くして水戸へ移り、弘道館で学びました。そして、水戸で研鑽を積んだ徳川慶喜に仕えた人物のひとりが、日本屈指の実業家に成長する渋沢栄一です。
弘道館前に立つ「徳川慶喜向学の地」の碑。大政奉還後の慶喜は弘道館で謹慎生活を送った
水戸城周辺には、1周約2.6kmの「水戸学の道」が整備されており、旧彰考館跡や弘道館など、水戸学にゆかりのある史跡をめぐりながら散策することができます。
水戸城周辺には、1周約2.6kmの「水戸学の道」が整備されており、旧彰考館跡や弘道館など、水戸学にゆかりのある史跡をめぐりながら散策することができます。徳川慶喜や渋沢栄一など、幕末に生きた人々に思いを馳せながら歩いてみてはいかがでしょうか。
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住所:茨城県水戸市三の丸1など
電話:029-306-8132(水戸市役所歴史文化財課)
アクセス:JR「水戸」駅から徒歩約10分
執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
国内・海外で1000超の城を訪ね、「城」をテーマに執筆・ガイド。著書『講談社ポケット百科シリーズ 日本の城200』(講談社、2021年)。『小学館版 学習まんが日本の歴史 6~8巻』(小学館、2022年)、『地図で旅する! 日本の名城』(JTBパブリッシング、2020年)などで執筆。日本お城サロン(まいまい京都主催)で毎月登壇。
※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています