2023/08/22
日本100名城・続日本100名城のお城 【続日本100名城・能島城(愛媛県)】潮流に守られた要塞!日本最大・村上海賊の城
「日本の城」といわれてイメージするのは、時代劇に登場するような天守や櫓のある近世の城ではないでしょうか。今回ご紹介するのはそのイメージとは全く違う、戦国時代に活躍した“海賊の城”です。現在の愛媛県今治市周辺の瀬戸内海を拠点とした、村上海賊の「能島城」は、潮の流れが取り巻く海城で島全体が城塞化されています。能島城にはどんな歴史ロマンが詰まっているのでしょうか!?(初回掲載:2020年8月4日。2023年8月22日更新)
海に浮かぶ孤島の城・能島城と、村上海賊
宮窪瀬戸に浮かぶ能島城
みなさんは「海賊」というとどのような姿をイメージしますか? 金品を盗む盗賊? それとも財宝を追いかけて世界中を旅する人?
今回登場する村上海賊は、戦国時代に瀬戸内海を通行する船から通行銭などをもらい、交易・流通の安全を守る海上活動を生業としていた一族です。海外の映画に登場するような「パイレーツ」というよりも「海上保安官」といったイメージの方が近いかもしれません。
能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家からなる村上氏の全盛期は16世紀頃。なかでも能島村上家が拠点としたのが能島城です。島全体が要塞となった海城で、村上海賊を代表する城。この三家は運命を別ち、それぞれの未来を歩んでいくことになります。
実際に戦があった!能島城合戦とは
島の周りは、時に最大速度18m(10ノット)にもなる荒波が打ちつけ容易に近づけない。この辺りの瀬戸は昔から船が転覆する難所だった
能島城を舞台にした戦もありました。戦国時代、北部九州をめぐり毛利氏と大友氏は対立。大友氏の呼びかけにより毛利氏包囲網ができ、永禄13年(1570)には能島村上氏もこの包囲網に加わりました。そのため毛利氏より狙われることとなります。
毛利軍は能島村上氏の家臣・嶋吉利の守る本太城(岡山県)、そして能島村上氏の拠点 務司城(むしじょう)を落とし、ついに元亀2年(1571)能島城を攻撃(能島城合戦)。援軍が駆けつけますが、これも毛利方の小早川軍・因島村上軍・来島村上軍などによって撃退され窮地に陥ります。能島村上氏を手助けするため、大友氏は和睦を斡旋(あっせん)。その後、和睦は成立し戦いは幕を閉じました。
個人では行けない!? 能島城への行き方
筆者が能島水軍の観光クルーズ船『能島上陸&潮流クルーズ』に参加した際の写真
能島城は、平成30年(2018)の西日本豪雨の被害に遭い長らく上陸することができませんでしたが、令和2年(2020)6月2日より上陸が再開されました。能島城へ向かう船は定期便がないため、観光ツアーに参加するか個人で船をチャーターして向かいます。人数が足りない場合は船が出ないこともあるため、城巡り仲間を集めて行くと良いですよ!
能島城上陸!散策してみよう
城の南部に位置する平坦地から上陸する
島への第一歩となる南部平坦地は、15世紀〜16世紀中頃にかけて段階的に埋め立てられました。ここでは石列や柱穴の遺構、鍋や釜などの遺物が見つかっており、荷揚げや漁具などを手入れする作業場として使われていたと考えられています。もしかしたら、海岸の一部の石積みも中世段階に築かれたものかもしれないと想像するだけでワクワクしてきますね!
東南出丸から中心部分を望む。中央が本丸と二の丸、そして左に見える削平地が三の丸だ
能島城は、6つの曲輪と船だまり、そして鯛崎島と呼ばれる属島から構成されています。土塁や空堀のない城ですが、時にこの荒々しい潮流が天然の要害となり、近づけば近づくほど激流に! 攻める時は、まさに死と隣り合わせです。
曲輪内は平坦に削平され、100〜200人ほどの兵が駐屯できるほどの広さがあります。
三の丸では約40cmほどの大きさの礎石や鍛冶屋跡が確認されている
能島城で行われた発掘調査からわかったこと
平成に行われた発掘調査では、能島城は14世紀後半〜16世紀後半まで使用されていたことがわかりました。城内では、井楼などの物見櫓や住居跡など現状18棟の建物跡が見つかっており、出土遺物では調理用具など生活土器も多かったことから、城内で生活していた様子が窺い知れます。
また、三の丸では焼きしめられた床面から焼土片や鉄くず、やじり、そして鍛冶場で使う送風口「鞴羽(ふいごはぐち)」が見つかったことから、鍛冶屋跡も確認。どうやら道具の修理などを自分たちで行っていたようですね!
二の丸西側の発掘調査時の様子(写真提供:村上海賊ミュージアム)
同じく二の丸南側。どのような建物があったのかイメージしてみよう(写真提供:村上海賊ミュージアム)
本丸ではかわらけ(素焼きのお皿)の破片が1万点以上見つかりました。昔の人たちは、現在の紙コップのように容器は使い捨てだったため、かわらけが見つかった場所ではかつて宴会が行われていたという可能性が浮かんできます。
東南出丸でも、儀式の一貫で土中に埋納されたものと考えられるかわらけや82枚の中国銭が発見されました。つまり、ここに祭祀に関連する施設があったと推定できるのです。
(左)東南出丸 (右)本島より少し離れた位置にある鯛崎島。属島も能島城の一部だ
島の東南部にある少し離れた小島は鯛崎島といい、出曲輪の役割をしていました。ここでも建物跡と大量の土器が発見されましたが、今は弁天様が祀られ行き交う船の安全を見守っています。
桟橋の痕跡、岩礁ピット
船だまり。島の中では潮の流れが穏やかな一角で、船をつけて入る城の出入口と考えられている
能島城の特徴といえば、岩場に空いた柱穴、通称「岩礁ピット」があげられます。船着き場以外にもあちこちにピットがあることから、桟橋や護岸用の杭列、船を繋いでおく柱などが島を囲むようにあったのかもしれません。
その数なんと400を超えるとか! 岩礁ピットは干潮時に現れますが、波が高いと近づくのは危険なため案内人の指示に従って行動してください。
村上海賊ミュージアムにある大穴の原寸大レプリカ。海岸は危ないため実物を見に行くことはおすすめできない
岩礁ピットの中には直径1m、深さ2mにもなる大穴が2ヶ所発見されています。これが一体何なのか研究が進められていますが、緩やかな登城路の延長線上にあることと、そして海水が届かない位置にあることが解明のヒントとなっているようです。
村上海賊の歴史がわかる「今治市村上海賊ミュージアム」
旗が勢いよくたなびく村上海賊ミュージアム。駐車場入口には和田竜さんの小説『村上海賊の娘』の本屋大賞受賞記念碑がある
村上海賊ミュージアムの常設展示では、能島村上氏の活躍がわかる古文書や、発掘調査の成果が展示されています。 とくに実際に着用していたとされる陣羽織は必見です! 展望室「しまなみ空中散歩」からは、瀬戸内海そして能島城の美しい景色が堪能できますよ。村上海賊について詳しく知りたい方は、お立ち寄り必須のスポットです。
小型船を復元した小早船の模型。あの荒れ狂う波を乗り越えられたのだろうか?と心配になるほど簡易的だ
江戸時代、そして海賊の行く末
ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスは著書『日本史』の中で、能島村上氏を日本最大の海賊と表現しました。そんな大海賊・能島村上氏も、豊臣秀吉が統べる時代には毛利氏や小早川氏の船手衆として生きていくようになり、小早川氏の筑前国替えに伴い能島城を退去しました。
関ヶ原の戦いでは、能島村上氏は因島村上氏と西軍につき敗北。江戸時代には萩藩の船手組に編成され、藩主が江戸に船で向かう際の警護や朝鮮通信使の曳航(えいこう)など海上警備の役目を担い、幕末を迎えました。海で育ち、海で戦い、生活の支柱を海に捧げた一族…カッコイイですね! 歴史ロマンがつまった能島城に想いを馳せてみませんか?
<能島城の基本情報>
住所:愛媛県今治市宮窪町宮窪
<今治市村上海賊ミュージアム>
住所:愛媛県今治市宮窪町宮窪1285番地
問い合わせ先:0897-74-1065
開館時間:9:00〜17:00
休館日:毎週月曜日(祝日の場合は翌日)、12/29〜1/3
公式HP:https://www.city.imabari.ehime.jp/museum/suigun/
アクセス:
<JR福山駅より>
・しまなみライナー・今治桟橋行きに乗り「大島BS」下車。島内バス(下田水港~宮窪~早川・友浦線)に乗り換え、「大島営業所」で友浦行に乗り継ぎ(または徒歩20分)、「村上水軍博物館」バス停下車、徒歩約1分。
<JR今治駅より>
・路線バス大三島線に乗り、「大島営業所」で島内路線バスの友浦行に乗り継ぎ(または徒歩20分)、「村上水軍博物館」バス停下車、徒歩約1分。
参考文献:宮窪町教育委員会編『水軍誌』(宮窪町教育委員会、2001)、今治市村上水軍博物館編『村上海賊vs戦国大名ー村上海賊の「外交」と戦いー』(今治市教育委員会、2016)
執筆・写真/いなもと かおり
お城マニア&観光ライター
年間120城を巡るマニア。國學院大學文学部史学科古代史専攻卒。19歳の時に、会津若松城に一目惚れしてから城の虜となる。訪城数は600ほど。国内旅行業務取扱管理者、日本城郭検定1級、温泉ソムリエ、夜景鑑賞士2級の資格をもつ。城めぐりの楽しみ方を伝えるべく、テレビやラジオにも出演中。