萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第56回 赤穂城 築城時の社会情勢を反映した、特殊設計の海城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。56回目の今回は、「忠臣蔵」の赤穂浪士で有名な赤穂城です。江戸時代の太平の世に築かれた海城の特徴を、甲州流という軍学に基づいた縄張などに注目しながら見ていきましょう。

赤穂城、厩口門
復元された厩口門

コンパクトながら利便性の高い海城

赤穂城(兵庫県)といえば「甲州流軍学に基づくとされる縄張」で知られます。塁線がカクカクと折れるいびつな多角形をした、敵に対して多方向から効率的に射撃できる特殊設計です。複雑に折れ曲がる城壁や堀に注目すれば、出っ張り(横矢出隅)や凹み(横矢入隅)などを巧みに取り入れているのがわかるでしょう。

たとえば本丸西側の城壁は途中大きく屈折して、屏風折れのようになっています。本丸には櫓台のように突出した「横矢枡形」がいくつもあり、東北隅、西北隅、西南隅、厩口門南に櫓台状の突出部があります。実際に二重櫓が建っていたのは東北隅だけでしたが、この1棟がかなり効いていたことも、現地を訪れればわかります。

赤穂城は、かつては二の丸の南側半分と三の丸の西側が瀬戸内海に面した海城で、二の丸南側の水手門には船着き場が設けられ、二の丸の東南隅には潮見櫓と呼ばれる海上監視を目的とした二重櫓も建っていました。また、赤穂城下町は熊見川河口を掌握する河川海上交通の拠点で、城の北側には熊見川を挟むように町家が並んで城下町を形成し、川沿いには藩の船入が置かれていました。

つまり、赤穂城は利便性の高さを考慮した海城であり、コンパクトながら効率的な警備を可能にした城でした。初代赤穂藩主の浅野長直が、慶安2年(1649)から築城を開始。敵対勢力との戦いを想定した戦闘力ではなく、政庁の防衛を目的とした警備力が感じられます。

赤穂城、天守台から見る大池泉と本丸御殿跡
天守台から見る、大池泉と本丸御殿跡

本丸は御殿の平面表示や天守台が見どころ

「忠臣蔵」で登場する浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は、築城した浅野長直の孫にあたる3代赤穂藩主です。現在の大石神社の境内が、仇討ちを統率した筆頭家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の屋敷跡。現存する長屋門の前に、江戸城(東京都)の刃傷事件を知らせる早駕籠が着きました。

塩屋門が三の丸への入口で、西駐車場から清水門跡や市立歴史博物館あたりまでが三の丸。山鹿素行(やまがそこう)の銅像が立つあたりが二之丸門跡で、三の丸と二の丸の境です。

本丸跡には本丸御殿の間取りが平面表示されており、江戸時代の御殿の構造や規模がよくわかります。発掘調査に基づき再現された庭園の景観も見どころです。本丸南東部には、高さ約9mに及ぶ天守台が存在感を放っています。天守は建造されませんでしたが、天守台の上からは周囲を見渡せ、海城だったころの景観を思い浮かべることができます。

赤穂城、天守台
本丸の天守台

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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