萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第50回 若桜鬼ヶ城 織豊期の石垣を堪能!3時期の変化もたまらない名城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。50回目の今回は、因幡の重要拠点として栄え、織豊期の石垣が良好に残っている若桜鬼ヶ城(鳥取県)。支配者が変わるごとに重ねられた城郭の改変とその特徴について見ていきましょう。

若桜鬼ヶ城、六角石垣
六角石垣

異なる表情が物語る、3時期の改変

現在の鳥取県東南端にある若桜は、東に但馬(たじま)、南に播磨(はりま)、西に美作(みまさか)と3国に囲まれ、それぞれの国に通じる街道の結節点にあります。本丸からの景観が、鬼ヶ城の重要性と役割を教えてくれます。鳥取と若桜をつなぐ若桜街道が走り、若桜から播磨へ向かう播磨道と、若桜から氷ノ山越に至る但馬道が分岐。城下町にある「伊勢道の道標」は播磨道と伊勢道の分岐を示すもので、江戸時代に宿場町として栄えたのも納得です。鬼ヶ城は、交通の要衝を押さえる軍事拠点であると同時に、シンボリックな城でもありました。防衛面が強化される一方で、石垣も城下町や街道からの見栄えを強く意識して積まれているようです。

織豊期の石垣がよく残り、その表情の違いに時代ごとの変容が隠されているのが魅力です。廃城後に破却された痕跡も明瞭に残り、泡末夢幻な城の末路もみられます。

若桜鬼ヶ城、本丸からの景観
本丸からの景観

複雑な変遷、中世城郭と近世城郭の二面性も魅力

鬼ヶ城は国人領主の矢部氏が築いたとされますが定かではなく、山名氏、尼子氏、毛利氏の進出により矢部氏が滅亡した後は、毛利氏配下の草刈景継が尼子党支配下の鬼ヶ城を攻撃した記述があります。

現在見られる石垣が築かれたのは、豊臣(羽柴)秀吉の支配下になってからのこと。織田信長の命により但馬侵攻が開始されると、羽柴秀長が播磨から鳥取城(鳥取県)への経路にある鬼ヶ城を攻略。鬼ヶ城に置かれた八木豊信が、現在のように城域を全山に広げ、登城道を増やしたようです。次いで天正9年(1591)に入った木下重賢によって、石垣造りの城の原型がつくられました。

木下重賢は、東側の急斜面上に100メートル超の石垣をめぐらせ、西側には複数の櫓台を構築。中枢分を拡張して石垣を築き、枡形虎口で強化しました。矢部氏の居館を接収しつつ、山上部分を大改造。本丸や二の丸のほか、敵の突破口となる北西郭群や本丸西側下段の虎口などを強化したようです。

その後、関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)には山崎家治が入り、さらに改変されました。家治は本丸や二の丸の強化と三の丸の拡張、天守台の構築、虎口の改修などを行い、櫓や城門も大きく改変。東側の石垣も、城下からより見栄えよく改造したと思われます。城主の居館や武家屋敷が城の北東麓に移転したのに伴い、大手道も北東麓の小城ケ谷から三の丸へ続くルートに変更。同時に、木下氏時代の大手口は搦手口になったと思われます。城下からの偉容を重視してのことでしょうか。本丸南側の3郭がどうやら未完成なのも、城下から見えない場所だからかもしれません。

石垣があるエリアとないエリアがあるのも、登城道が複数にわたるのも、こうした複雑な変遷があるからです。中世の城と近世の城が共存しているのも魅力。山頂付近が近世的なのに対し、南北の尾根の中腹から先端にかけては中世的な構造です。

若桜鬼ヶ城、三の丸の大手門跡
三の丸の大手門跡

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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