お城の現場より〜発掘・復元最前線 第45回【横須賀城】美しい玉石垣の本丸虎口や、特殊な天守の構造を解説

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第45回は、徳川家康が武田氏の高天神城奪還のために築かせ、のちに近世城郭として整備された横須賀城。発掘調査や史料で裏付けされた、本丸虎口や天守の構造について掛川市観光交流課の戸塚和美さんが解説します。

平山城と近世城郭の特徴を併せ持つ

横須賀城は、天正2年(1574)から天正8年(1580)にかけ、徳川家康によって築かれた平山城である。当時の遠江では、武田氏と徳川氏による勢力争いが展開されており、とりわけ高天神城(静岡県掛川市)をめぐっての争奪戦が熾烈を極めていた。そのような状況下、横須賀城は、武田方にあった高天神城を徳川方が奪還する目的で築かれた。

高天神城奪還のために21にも及ぶ城砦群による包囲網が構築され、横須賀城はその城砦群に兵士・武器・兵糧を効率かつ迅速に運ぶための兵站(へいたん)基地としての役を担った。この包囲作戦が功を奏し、難攻不落を誇っていた高天神城は落城、徳川方の領有となった。ところが、徳川方が苦心の末奪還した高天神城であったが、間もなく廃城となってしまう。一方、横須賀城は近世城郭として整備され、幕末まで続くことになる。

横須賀城、模型
17世紀前半の絵図を基に作成された横須賀城の模型

横須賀城は現在の地形とは異なり、18世紀初め頃までは内海に突き出る砂州を利用して築かれており、東西に細長く展開しているのが特徴である。最奥の松尾山は家康が最初に築いた城域で、その前面に北の丸・本丸、西に二の丸、東に三の丸が配され、3つの曲輪は外堀と城内に配された池状の堀により分けられる。松尾山周辺が最初に築かれ、17世紀初頭に西の丸、17世紀中葉に三の丸・二の丸に拡張されていった。

横須賀城、縄張り図
横須賀城の縄張り図。発掘調査が行われたのは、本丸周辺と松尾山周辺

横須賀城、遠州横須賀城図
17世紀前半頃の横須賀城を描いた「遠州横須賀城図」に編集部が加筆
(所蔵/国立国会図書館)

横須賀城では、これまでに史跡整備のための基礎資料を得る目的で、昭和59年(1984)から発掘調査が実施され、その成果を基に本丸・本丸虎口、天守台、北の丸、松尾山の整備が実施されている。ここでは、いくつかの特徴的な調査成果を紹介したい。

枡形虎口と天守台の構造が明らかに

横須賀城の最大の特徴とも言えるのは、本丸虎口に復元された玉石積みによる石垣である。角石による石垣に見慣れているため玉石による石垣は一見すると違和感を覚えるが、玉石の曲線から成る石垣ラインは優美でさえある。

横須賀城、本丸石垣
丸みを帯びた玉石を積んで築かれた本丸の石垣

玉石による石垣と切岸により囲まれた本丸虎口に立つと、優美な石垣とは裏腹に三方から横矢が掛かる迎撃強固な桝形虎口になっていることがわかる。廃城後間もなく門などの建造物とともに石垣のほとんどが、払い下げられ石垣は失われてしまう。発掘調査では石垣の根石列と栗石が検出され、その痕跡から複数の門と石垣に囲郭された絵図同様の桝形構造であることが判明した。

横須賀城、本丸枡形虎口
本丸の枡形虎口

西の丸西側斜面では、西大手門・二の丸御殿などがある城郭西側の低地から本丸・天守台方面に上がる登坂路上の門と、それに伴う螺旋構造の石段が発見された。西側の城門と通路の構造の一端が明確になるとともに、螺旋構造は門から大きく南側に迂回させており、本丸を防御するための構造であることも判明した。

横須賀城、石段
西の丸へ続く石段。大きく曲がった螺旋構造は、敵が一直線に本丸に入れないようにするための防御だと考えられる

天守台は廃城以降、度々改変を受け、とりわけ北側の土塁が大きく削平されていたが、発掘調査により天守台の構造が判明した。天守台の中央から南西よりの箇所から、東西6間(12m)、南北3.5間(7m)の碁盤目状に配された19箇所の礎石と礎石抜き取り痕からなる礎石建物跡、すなわち天守の礎石が検出された。

また、南東隅から天守台へ上がるためのスロープ状の通路が検出された。天守台の北側には土塁状の高まりがあり、天守の礎石跡の位置から、天守がこの土塁状の高まり部分に一部が載る特殊な構造であったと推定されている。

横須賀城、天守台
礎石と礎石抜き取り痕が発見された天守台

横須賀城、石段
天守台の模式図。礎石と礎石抜き取り痕を図式化。点線の四角は、建物が建っていたと推測される範囲

家康が最初に築いた城域である松尾山の調査

松尾山では、東端の空堀に接する周囲より2m程高い平坦部から、配置が不均等な礎石が検出された。その配置から、基礎石の上に横木を置き、そこから柱を立ち上げた根太構造の建物であることが判明している。絵図によれば多門状の細長い建物が描かれており、その構造を勘案すると倉庫であったと想定される。その他、史跡の現状変更に伴う調査でも特筆すべき調査成果があった。東大手門周辺では、東大手門と推定される建物跡が検出されている。

横須賀城では、前述のように本丸を中心とした主要部では整備が実施されてはいるが、二の丸、三の丸、それらの諸曲輪を囲む水堀を含む外周部は未だ手付かず状態である。整備計画が策定され約四半世紀、その間に見直しもされてきたが、社会情勢、経済情勢の変化が著しい昨今においては、さらなる見直しを余儀なくされている。現在、新たな時代に即した計画見直しが図られつつあり、その整備内容が期待される。

横須賀城(よこすか・じょう/静岡県掛川市)
武田氏と徳川氏の高天神城の戦いの際に、徳川家康が大須賀康高に築かせた平山城。戦の際、砦に兵士・武器・兵糧を運ぶための基地として使用された。家康が高天神城を攻略したあとは、近世城郭として整備。水運が発達し湊を擁していたため、江戸時代に発展し、明治元年(1868)に廃城となるまで存続した。天竜川から調達した玉石を用いた石垣が特徴的だ。

執筆・写真提供/戸塚和美(掛川市観光交流課)

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