萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第45回 国吉城 約10年の攻撃に耐えた「難攻不落」の城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。45回目の今回は、越前朝倉氏の攻撃を長年耐え抜いた「難攻不落の城」として知られる福井県の国吉城です。土づくりの山城から総石垣の山城へと変貌していった歴史を物語る、貴重な遺構を見ていきましょう。

国吉城
山上からの眺望

若狭・越前の国境を守る、最前線の支城

越前朝倉氏の攻撃を約10年も耐えた「難攻不落の城」として知られる国吉城(福井県三方郡)。重要な立地ゆえ、長年に渡って朝倉氏の攻撃を受けました。

国吉城は、若狭守護・武田氏の重臣だった粟屋勝久が弘治2年(1556)に築城したとされます。武田氏の当主の座をめぐる争いをきっかけに、朝倉氏と敵対。国吉城は永禄6年(1563)に朝倉氏に単独で攻め込まれ、天正元年(1573)に朝倉氏が滅亡するまで幾度となく激戦の舞台となったと「国吉籠城記」に記されています。

若狭の東端部、越前との国境にあり、武田氏の本城である後瀬山(のちせやま)城(福井県小浜市)と連携する国境を守る最前線の支城といえます。腰越坂と椿坂を喉元に押さえる標高197.3メートルの通称・城山に築かれ、眼下には越前から若狭に通じる丹後街道が通る要所。山上からは、国境となる関峠がはっきりと見えます。

国吉城、枡形虎口
本丸北西側の枡形虎口

総石垣への変貌、破城まで辿れる戦国の山城

大きな見どころとなる「粟屋期」「木村期」「京極期」の3時期にわたる石垣も、城の重要性を物語る実証のひとつです。

武田氏が滅亡すると若狭は羽柴秀吉の家臣・丹羽長秀の支配下となり、粟屋勝久はその配下となって国吉城に在城しました。賤ケ岳の戦いが勃発すると若狭街道は柴田勝家の侵攻ルートとして想定され、国吉城は引き続き緊迫したようです。その後は、家臣の木村定光が入城。浅野長吉(長政)、木下勝俊、京極高次が若狭の国主となると、国吉城には彼らの重臣が城代として置かれました。京極氏が寛永11年(1634)に転封後は譜代大名の酒井忠勝が若狭に入り、国吉城の南麓に佐柿町奉行所と御茶屋屋敷がつくられました。

興味深いのは、山麓と山上の主要部が総石垣の城へと変貌していた可能性が高いことです。かなり広範囲に石垣が確認され、とくに帯曲輪の側面に階段状に積まれた石垣、石垣で固められた本丸の2カ所の枡形虎口には目を見張ります。本丸北西側の虎口では巨大な礎石や鏡石が発見され、大規模な礎石建物跡も見つかっています。

戦国時代の山城の姿が堪能できるのも、大きな魅力です。山頂に本丸を置き、北側の尾根上には巨大な堀切を挟んで5段の連郭曲輪群が連なります。南西方向の尾根先も曲輪が展開し、中腹の二の丸には喰違い虎口や高土塁がよく残ります。土づくりの山城から総石垣の山城に変貌し、やがて破壊されるまでの変遷が辿れる貴重な城です。

国吉城、喰違い虎口と高土塁
二の丸の喰違い虎口と高土塁

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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