萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第42回 和歌山城 築造時期の異なる石垣が見どころ

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。42回目の今回は、徳川御三家・紀州徳川家の居城だった和歌山城。豊臣時代・浅野時代・徳川時代と積まれた時期によって様相の異なる石垣や、かつての姿に復元された御橋廊下などの見どころをご紹介します。

和歌山城、御橋廊下
復元された御橋廊下

豊臣の城から徳川御三家の城へ

和歌山城(和歌山県和歌山市)は、天正13年(1585)に紀州を平定した羽柴秀吉の命令で築かれた城。縄張(設計)は藤堂高虎とされます。弟・秀長の城代として桑山重晴が入り、城と城下町を本格的に整備したようです。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後は、浅野幸長が大改修し天守を建造。元和5年(1619)には徳川家康の10男・頼宣が城主となり、御三家にふさわしい城にすべく大拡張を行い、現在の姿になりました。

天守は小天守、乾櫓、二の門などが多聞櫓でつながれた連立式天守です。寛政10年(1798)に10代藩主の徳川治宝が改修するまで、天守は黒色だったよう。弘化3年(1846)に落雷で焼失したため嘉永3年(1850)に再建されましたが、その天守も残念ながら空襲で焼失。昭和33年(1958)に現在の天守が再建されています。

和歌山城、石垣
緑泥片岩を使った石垣

現存する城門のほか、復元された橋もチェック

さまざまな時期に積まれた、様相の異なる石垣が見どころです。豊臣時代は紀州の緑泥片岩を用いた野面積、浅野時代と徳川時代は和泉砂岩を用いた打込接。一中門や松ノ丸櫓台などは、5代藩主の徳川吉宗が改修したとみられる、花崗岩を用いた切込接です。これら、おおよそ3時期の石垣を見ることができます。秀長の大和郡山城(奈良県大和郡山市)にも見られる転用石、2,300を超える刻印石も見られます。

唯一の現存建造物は、岡口門です。延長40メートルの土塀が北側に続く櫓門で、元和7年(1621)に城を拡張した際に整備したと考えられます。寛政8年(1796)までは、この岡口門が大手門でした。岡口門から一ノ橋門へと大手が変更されると、同時に本町筋を中心とした江戸時代の城下町の原型もつくられました。

平成18年(2006)に復元された御橋廊下は、紅葉渓庭園(西の丸庭園)のある西の丸の南東隅から二の丸へ通じる橋です。江戸時代後期の図面をもとに復元されました。長さは約27メートルで、幅は約3メートル。二の丸と西の丸は高低差が3.4メートルほどあるため、橋が傾斜しています。床が鋸歯状になっているのは、滑らないための工夫とか。二の丸は徳川時代には藩政の中心地で、御殿が建てられていました。

和歌山城、岡口門
現存する岡口門

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。