2021/12/15
お城の現場より〜発掘・復元最前線 第38回【徳島城】文化センター跡地から絵図に描かれた蔵の跡を発見
城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第38回は、戦国時代に蜂須賀家政が秀吉の命で築城した徳島城(徳島県徳島市)。城の南東に位置する文化センターの跡地から見つかった蔵の跡や、石垣の遺構について、徳島県埋蔵文化財センターの藤川智之さんが紹介します。
城下町を発展させた蜂須賀家の居城
徳島城は本丸・東二の丸・西の丸・西三の丸のある城山と、御殿・三木郭からなる連郭式平山城である。
徳島城の全体を表した絵図に編集部が加筆。赤囲みは発掘調査地
『阿波国徳島城之図』/国立公文書館蔵
城山のある徳島を中心に、福島・住吉島・常三島・出来島・徳島・寺島の各地区には、武家屋敷や町屋が建ち並ぶ城下町が形成された。その後、再開発されるが街区の形成や地名にその名残を多くとどめており、これが現在の徳島の町につながることがわかる。
徳島城は版籍奉還後の明治5年(1872)に、鷲の門以外の建物が取り壊された。その後、明治38年(1905)には徳島城跡の大部分は徳島公園になり、昭和36年(1961)には三木郭を東西に貫くよう形で国道192号線の立体交差が完成した。現在の国道192号線以北は、国史跡に指定されている。
国道192号線より南には、昭和38年(1963)から平成29年(2017)までは旧三木郭内で徳島市立文化センターが開館していたが、閉館後に解体され、今回の調査が行われた。
三木郭から長御蔵の礎石を発見
令和元年(2019)に行われた調査対象地は、徳島城の南東の一角に位置する、城内の三木郭の南半分および城外の寺島口門台などに当たる場所だ。
徳島城を描いた絵図などには、それぞれの施設の様子が描かれたものがあり、三木郭の南半分の区画には東西南北に蔵があった。
長御蔵の「四間梁二拾六間御蔵」
西側の基壇と束石とみられる石材が確認された。大きさ・間隔ともにややばらついている箇所がある
長御蔵は、江戸後期に描かれた「長御蔵指図」の三木郭東御蔵「四間梁二拾六間御蔵」の一部及び「三間梁二六間」に該当する御蔵だ。「四間梁」の礎石は比較的よく残っていて、礎石は柱間隔が1間ないしは半間の束石(床を支える柱の下に設ける石)と考えられる。
「四間梁二拾六間御蔵」西側石組溝
西側基壇と石組溝。ほとんどが青石(結晶片岩)という岩を用いて組まれているが、わずかに砂岩の転用も使われている
一部、柱間隔が乱れているのは蔵の間取りに起因する可能性がある。御蔵及び石組溝などの遺構の年代は18世紀後期〜19世紀だと考えられる。
南に隣接する「三間梁」の御蔵の礎石はほとんどが失われているが、西側に隣接して石組溝が発見されており、おおよその規模が想定される。
長御蔵の「三間梁二六間」
西側基壇と石組溝のほとんどが失われている。石組溝は「四間梁」の溝と方向が違う
三木郭の西御蔵から続く徳島城総構の石垣の一部についても、部分的に確認された。
徳島城総構の東側石垣・南御蔵の石組溝
総構石垣は三木郭から寺島口門台方向に延びる。石組溝よりも石材が大型。石組溝は徳島城総構石垣にぶつかる
寺島口門台の石垣の隅石が検出
城下町徳島には3ヶ所の門台(寺島口・助任口・福島口)と番所を設け、人の出入りを厳しく管理していた。各島にとりつく橋は防衛上重要な役割を持ち、寺島口門台から寺島橋(徳島橋)を西へ渡った城下町の起点となる場所には、稲田家・賀島家の家老屋敷を配していた。このうちの一つ、寺島口門台で発掘調査が行われた。
寺島口門台からは、本来南北一対で構成される門台の石垣の北側部分が検出された。北辺及び西辺の石垣は失われているが、隅石3ヵ所が残存している。
寺島口門台の南東隅石
直角に加工された隅石。石材の背後には大量の割石による裏込め石を充填している
門台石垣の規模は、東西10m(5間)、南北9m(4.5間)を測り、基底石はあるものの上部の石垣石は失われている。南辺の中間部分には、平坦な石が置かれており対面する南側の建物との間にある扉を受けたものとみられる。
寺島口門台構築前の石材
寺島口門台の内部を充填する裏込めの石材や盛り土より下層に広がる。門台を構築するときに寺島川を埋めるための礫か
門台の北西部に裏込の下層には、裏込とは異なる礫が充填されている。この部分は寺島川を埋め立てて構築されているため、造成のために礫を充填したものと考えられるが、門台築造以前の構造物の可能性も考えられる。
徳島城(徳島県徳島市)
城山の渭山(いのやま)城と山麓の寺島城を合わせた巨大な平山城で戦国時代に蜂須賀家政が築城した。江戸時代以降も蜂須賀家の居城として拡張されたが、明治初期に廃城令を受けて鷲の門を除く全ての建物が撤去された。その後、鷲の門は徳島大空襲で焼失してしまったが、平成1年(1989)に徳島市政100年を記念して、市民の寄付により復元された。
執筆/藤川智之(徳島県埋蔵文化財センター)
写真提供/徳島県埋蔵文化財センター・国立公文書館
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